『後漢書』倭伝

建武中元二年(57年) - 倭奴国が金印を授与される。『後漢書

後漢書 巻一一五 東夷伝・倭(『後漢書』倭伝)
 建武中元二年(光武帝、五七)、倭の奴国が貢を奉じて朝賀した。使人はみずから大夫と称した。倭国の極南界である。光武帝後漢第一代、二五―五七在位)は印綬(金印紫綬、志賀島発見の金印「漢委奴国王」であろう)を賜うた。

後漢書 巻八十五・東夷列伝 倭
 建武中元二年(五七年)、倭の奴国の使者が、貢ぎ物を捧げて後漢光武帝のもとに挨拶にきた。使者は大夫と自称した。倭の奴国は倭国の一番南の地である。光武帝は倭の奴国の王に、印章と下げひもを賜わった。
 安帝の永初元年(一〇七年)、倭国王帥升は奴隷一六〇人を献上して、皇帝の謁見を願ってきた。
 桓帝霊帝の頃(一四六~一八九年)に、倭国の国内は混乱し、各国が互いに攻め合って、何年もの間統一した君主がいなかった。


三国志 巻三〇 魏志 烏丸鮮卑東夷伝倭人
対馬国の長官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。
一大国(壱岐国)に到着する。そこの長官は(対馬と同じように)また卑狗といい、副官は卑奴母離という。
 東南に行って奴国に到着するまで百里ある。その国の長官は兕馬觚といい、副官は卑奴母離という。千家余りある。

 女王国から北にあたる国々については、その戸数や道のりをほぼ記録することができるが、それ以外の方向につらなる国々については、遠くへだたっているため、詳細を知ることができない。女王国のさらにむこうには、斯馬国があり、つづいて己百支国があり、つづいて伊邪国があり、つづいて都支国があり、つづいて弥奴国があり、つづいて好古都国があり、つづいて不呼国があり、つづいて姐奴国があり、つづいて対蘇国があり、つづいて蘇奴国があり、つづいて呼邑国があり、つづいて華奴蘇奴国があり、つづいて鬼国があり、つづいて為吾国があり、つづいて鬼奴国があり、つづいて邪馬国があり、つづいて躬臣国があり、つづいて巴利国があり、つづいて支惟国があり、つづいて烏奴国があり、つづいて奴国がある。ここで女王の領域は終る。


日本書紀 巻第八 仲哀天皇 足仲彦天皇
八年(一九九)一月
 二十一日、儺県におつきになり、橿日宮(香椎宮)に居られた。

日本書紀 巻第十八 宣化天皇 武小広国押楯天皇
元年(五三五)
 夏五月一日、詔して、「食は天下の本である。黄金が万貫あっても、餓えをいやすことはできない。真珠が千箱あっても、どうしてこごえるのを救えようか。筑紫の国は、遠近の国々が朝貢してくる所であり、往来の関門とする所である。このため海外の国は、潮の流れや天候を観測して貢をたてまつる。応神天皇から今に至るまで、籾種を収めて蓄えてきた。凶年に備え賓客をもてなし、国を安ずるのに、これに過ぐるものはない。そこで自分も阿蘇君を遣わして、河内茨田郡の屯倉の籾を運ばせる。蘇我大臣稲目宿禰尾張連を遣わして、尾張国屯倉の籾を運ばせよ。物部大連麁鹿火は新家連を遣わして、新家屯倉の籾を運ばせよ。阿倍臣は伊吹臣を遣わして、伊賀国屯倉の籾を運ばせよ。宮家を那津の口(博多大津)に建てよ。また、かの筑紫・肥国・豊国の三つの国の屯倉は、それぞれはなれへだたり、もしそれを必要とする場合には、急に備えることが難しい。諸郡に命じて分け移し、那津の口に集め建て、非常に備えて民の命を守るべきである。早く郡県に下命して、私の心を知らしめよ」と仰せられた。