神功皇后三十九年

日本書紀 巻第九
神功皇后 気長足姫尊
 三十九年(二三九)、この年太歳己未。――魏志倭人伝によると、明帝の景初三年(二三九年)六月に、倭の女王は大夫難斗米らを遣わして帯方郡に至り、洛陽の天子にお目にかかりたいといって貢をもってきた。太守の訒夏は役人をつき添わせて、洛陽に行かせた。
 四十年(二四〇)、――魏志にいう。正始元年、建忠校尉梯携らを遣わして詔書印綬をもたせ、倭国に行かせた。
 四十三年(二四三)、――魏志にいう。正始四年、倭王はまた使者の大夫伊声者掖耶ら、八人を遣わして献上品を届けた。

 六十六年(二六六)、――この年は晋の武帝の泰初二年である。晋の国の天子の言行などを記した起居注に、武帝の泰初二年十月、倭の女王が何度も通訳を重ねて、貢献したと記している。


三国志 巻三〇 魏志 烏丸鮮卑東夷伝倭人
対馬国の長官は卑狗といい、副官は卑奴母離という。

一大国(壱岐国)に到着する。そこの長官は(対馬と同じように)また卑狗といい、副官は卑奴母離という。

 東南に行って奴国に到着するまで百里ある。その国の長官は兕馬觚といい、副官は卑奴母離という。千家余りある。

 南に行くと、邪馬台(壱)国に到着する。

倭国の使者は中国にやって来て、みんな(呉の太伯の後裔と自任しているので)大夫(大臣)だと自称している。

 景初二年(二三八。景初三年ともいう)六月、倭の女王(卑弥呼)は、大夫の難升米らを帯方郡に遣わし、魏の天子(明帝。景初三年ならば斉王芳になる。以下同じ)のもとに赴いてじかに朝貢することを求めた。帯方郡の太守劉夏は、役人を派遣して、倭人の一行をともない送って(天子のいる首都である)洛陽に到着させた。
 その年の十二月に、魏の明帝は詔書で倭の女王(卑弥呼)に返事して、
親魏倭王卑弥呼に(制の形式で)詔する。…」といった。
 正始元年(二四〇)、帯方郡太守の弓遵は(部下の)建中校尉(ただしくは建忠校尉)の梯儁らを遣わして、(魏の明帝の)詔書と授与された印綬を奉じて、倭国に到着した。

 その四年(二四三)、倭王は、また使者として大夫の伊声耆・掖耶狗ら八人を遣わし、奴隷、倭製の錦、深紅と青の別々の染め糸で固く織った絹織物、真綿入りの衣、白絹の織物、赤い木の弣(弝)がある短弓と矢とを献上した。掖邪狗らは率然中郎将の組紐つきの職印を一律に授かった。
 その六年(二四五)、(斉王芳が)詔を出して倭の難升米に(軍旗である)黄幢(黄色い旗)を賜与することとし、帯方郡を通じて授けた。
 その八年(二四七)、帯方郡太守の王頎が、(帯方)郡の役所に着任した。倭の女王・卑弥呼は、(南にいる)狗奴国の男王・卑弥弓呼ともとから不和だった。



1 高祖 文皇帝  曹丕  220年 - 226
2  烈祖  明皇帝  曹叡  226年 - 239年
3  厲公  曹芳  239年 - 254年
4  曹髦  254年 - 260年
5  元皇帝  曹奐  260年 - 265年


晋書 巻三 武帝
(泰始二年、二六六)十一月己卯、倭人、来たりて方物を献ず。
晋書 巻九十七 列伝・東夷・倭人
宣帝の公孫氏を平らぐるや、その女性は使いを遣わして帯方に至り朝見し、その後は貢聘絶えず。文帝に及んで相と作り、また数至す。泰始の初め、使いを遣わして重訳入貢す。


西晋
世祖武帝司馬炎、在位265年 - 290年) 司馬昭の長男
孝恵帝(司馬衷、在位290年 - 306年) 先代の次男
建始帝(司馬倫、在位(僭称)301年) 司馬懿の九男
孝懐帝(司馬熾、在位306年 - 311年) 先代の異母弟
孝愍帝(司馬鄴、在位313年 - 316年) 先代の甥


神功皇后成務天皇40年 - 神功皇后69年4月17日)は、仲哀天皇の皇后。『日本書紀』では気長足姫尊・『古事記』では息長帯比売命・大帯比売命・大足姫命皇后。父は開化天皇玄孫・息長宿禰王で、母は天日矛裔・葛城高顙媛。応神天皇の母であり、この事から聖母とも呼ばれる。弟に息長日子王、妹に虚空津比売、豊姫あり。
三韓征伐を指揮した逸話で知られる。
夫:第十四代天皇 仲哀天皇
皇子:誉田天皇、第十五代天皇 応神天皇
皇子:誉屋別皇子日本書紀では弟媛の子)。
日本書紀』などによれば、神功元年から神功69年まで政事を執り行なった。夫の仲哀天皇香椎宮にて急死(『天書紀』では熊襲の矢が当たったという)。その後に熊襲を討伐した。それから住吉大神の神託により、お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま筑紫から玄界灘を渡り朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻めた。新羅の王は「吾聞く、東に日本という神国有り。亦天皇という聖王あり。」と言い白旗を上げ、戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗百済朝貢を約したという(三韓征伐)。
渡海の際は、お腹に月延石や鎮懐石と呼ばれる石を当ててさらしを巻き、冷やすことによって出産を遅らせたとされる。月延石は3つあったとされ、それぞれ長崎県壱岐市の月讀神社、京都市西京区の月読神社、福岡県糸島市の鎮懐石八幡宮に奉納されたと言われている。その帰路、筑紫の宇美で応神天皇を出産し志免でお紙目を代えたと伝えられている。他にも壱岐市の湯ノ本温泉で産湯をつかわせたなど九州北部に数々の伝承が残っており、九州北部に縁の深い人物であったと推測される。
神功皇后三韓征伐の後に畿内に帰るとき、自分の皇子(応神天皇)には異母兄にあたる香坂皇子、忍熊皇子畿内にて反乱を起こして戦いを挑んだが、神功皇后軍は武内宿禰や武振熊命の働きによりこれを平定したという。