砂糖法

アメリカ合衆国の独立
フレンチ・インディアン戦争の結果、イギリスは広大なルイジアナ地域をフランスから獲得したが、戦費によって膨らんだ国家債務の償還、および植民地維持のために送られた軍隊の費用を13植民地への増税で賄う方針を採り、1764年に砂糖法を、翌1765年には印紙法を適用した。
この増税に対して植民地では不満の声が高まり、間もなくこの2つの税法は廃止に追い込まれたが、イギリス本国政府は植民地に対しての課税を諦めず、1767年には茶法を制定し、植民地でのイギリス東インド会社による茶の独占と、茶に対しての課税を行った。これに対して不満を持った植民地人は1773年、ボストン茶会事件を起こし、イギリス本国政府とアメリカ植民地との相互不信感がいっそう高まる結果となった。
1775年にレキシントンで、イギリス軍と植民地軍との間の武力衝突が起こった。これが植民地全域にまで拡大し、アメリカ独立戦争に発展した。植民地軍はジョージ・ワシントンを司令官として粘り強く対抗、翌1776年には独立宣言を発した。イギリスを除く他のヨーロッパ列強は、当初事件の推移を傍観していたが、1778年にベンジャミン・フランクリンの説得によって、新大陸での利権回復の好機と見たフランスが対英宣戦した。1780年にはロシアのエカチェリーナ2世の提唱によって武装中立同盟が成立し、ヨーロッパの中でも孤立したイギリスは苦戦を強いられた。
1783年のパリ条約によって、イギリスは13植民地の独立に加えて、ミシシッピー川以東のルイジアナアメリカに、以西の地域をフランスに割譲し、これによって新大陸でのイギリスの支配地域はカナダと西インド諸島のいくつかの島々に限定されることになった。
この戦争で対英宣戦したフランスの財政的な持ち出しは極めて大きく、財政が極度に悪化したため、免税特権を持っていた貴族、聖職者に対しての課税に踏み切ることになった。これに対して三部会の開催が要請されたのがフランス革命の遠因である。フランス革命は、イギリス史にも次のエポックを作り出すことになった。内政的には、ウォルポール以来のホイッグの優位がアメリ独立運動の対応に躓いたことによって縮小し、一連の対応で国王や国民の支持を得たトーリー優位に変わっていった。