嵯峨 浩 1914年3月16日 - 1987年6月20日

藤原鎌足不比等―房前―真楯―内麻呂―冬嗣―長良―清経―元名―文範―為雅―中清―範永―良綱―孝清―範孝―宗隆―実隆―範昌―高倉永経―永賢―永忠―範賢―永季―永行―永藤―永豊―永継―永康―永家―永相―永孝―永慶―永敦―滋野井公澄―正親町三条実彦―公積―実同―公則―嵯峨実愛―公勝―実勝―浩―慧生、嫮生


第一次世界大戦
端緒
19世紀後半になるとドイツの産業革命が急激に進展し、工業力でイギリスに追いつく勢いを見せた。国内産業の発達したドイツは海外に新しい植民地を欲し、すでにイギリス、フランスによって色分けが成されていた植民地の再分割を主張するようになった。このためドイツとの対立が激化した。イギリスは対ドイツの安全保障策としてフランスと英仏協商を、ロシアと英露協商を結んで三国協商とし、ドイツ、オーストリア、イタリアの三国同盟に対抗しようと試みた。1914年、サラエヴォ事件によってオーストリア・ハンガリー帝国次期皇位継承者フランツ・フェルディナントが暗殺されたことを契機にして、ヨーロッパの大国同士が争う第一次世界大戦に突入した。
当時の首相のハーバート・ヘンリー・アスキスはドイツが中立国ベルギーを侵略したことに対して対独宣戦することを決意した。イギリスはフランスに大陸遠征軍を派遣、フランス、ベルギー軍と共に西部戦線でドイツ軍と対峙した。当初イギリスでもこの戦争は比較的短期間で終了すると予測されていたが、緒戦のマルヌ会戦でドイツ主導の短期件戦計画が破綻すると両軍とも北海からアルプスまで至る塹壕を掘ってにらみ合い、西部戦線は膠着状態に陥った。

アイルランドの独立
19世紀末から20世紀初頭にかけてのアイルランド自治を要求する運動により、アイルランドの地位はしばしば政治的な問題として取り上げられていた。19世紀末に提案された2度のアイルランド自治法案はいずれも廃案となったが、1914年にようやく自治法案が可決された。しかしこの自治法は大戦の勃発を理由に施行されずに凍結されることになった。戦争の長期化が予測されなかったためアイルランド側にも一定の了承があったが戦争が長期化することでこの目論見は外れた。戦中を通してイギリスに対する不満は増大し、ドイツの裏工作によって1916年に大規模な対英反乱とアイルランド独立の宣言が行われた。イギリスはこれに対し軍の投入と、反乱首謀者の処刑で応えたためイギリスに対する不信感は一層増した。
このような背景により、戦後のイギリスにとってアイルランド問題は緊急的な政治課題となっていた。18年の総選挙で大勝したロイド・ジョージはアルスター6州を北アイルランドとして分離し、北アイルランドのイギリス残留を条件にアイルランドの独立を認めることを公約に掲げた。一方で独立急進派はイギリスに対してゲリラ戦を展開しこれに応えた(アイルランド独立戦争)。これによってアイルランド問題の緊急性が増したイギリスでは1920年アイルランド統治法が制定された。独立戦争が収拾されるに及んで統治法の枠組みの中でのアイルランド自治を英愛間で確認する英愛条約が締結され英王冠に忠誠を誓うアイルランド自由国の成立が確認された。一方アイルランドではこの条約に対しての賛成派と反対派の意見が集約できず、アイルランド内戦が勃発した。
その後アイルランドは1937年のアイルランド憲法の施行に伴い、国名をエールに変更した。第二次世界大戦後の1949年にはアイルランド共和国となって1949年に英連邦を離脱した。クロムウェルアイルランド征服以来の入植によりプロテスタント系住民が多くなっていた北アイルランドは、カトリック系が多数を占める南アイルランドとは袂を分かち、連合王国に残る途を選んだ。しかしそのために北アイルランドでは少数派となったカトリック系住民と多数派のプロテスタント系住民の間に対立の火種を残すこととなり、又アイルランドが統一されていないという不満も残ることになった。