日本国憲法 前文

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。


帝国の崩壊
第二次大戦中イギリスは帝国内で最大規模の人口を誇るインドに対して、ヨーロッパ、太平洋で複数の戦線を維持し、又城内平和を維持するため戦後インドの地位に対して大幅な譲歩をせざるを得なかった。イギリスは1947年にインド独立法を認め、インドとパキスタンの独立を、翌1948年にはセイロンの独立を認めた。又大戦中に日本の支配下にあったビルマ、マレーでもイギリス支配下に復することに混乱が見られ、1948年にビルマの1957年にマレーシアの独立を認めた。
1960年代に入るとフランス領西アフリカの独立要求を期にアフリカ諸国の独立運動が活発化し、1960年にナイジェリアが、1962年にウガンダが、1963年にケニアが、1964年にマラウイザンビアがイギリスから独立を宣言した。又1961年に南アフリカが、1966年にローデシアアパルトヘイト維持のためイギリスからの独立を宣言した。
1956年にはエジプトがスエズ運河の国有化を宣言し同地帯を占領したためイギリス、フランス、イスラエルとの間で戦闘が勃発した。これが第二次中東戦争スエズ戦争)である。英仏は国際世論の支持を得られなかったためスエズから撤退し、地中海と紅海を結ぶスエズ運河の利権を喪失した。またエジプトの行動に励まされて中東地域でも独立運動が刺激され、1971年にバーレーンカタールアラブ首長国連邦がイギリスから独立した。
残る最大のイギリス植民地は香港だけになったが、これも1984年にサッチャー訒小平の間で行われたトップ会談で新界の租借期限が切れる1997年に割譲地も含めて一斉に中国に返還されることになった。香港を返還したことで、イギリスは主要な植民地のほぼ全てを喪失することになった。

冷戦下のイギリス
第二次世界大戦終結後、ヨーロッパは自由主義国家群の西ヨーロッパと、社会主義国家群による東ヨーロッパの2つに分裂した。この状況を指して「バルト海のシュテッティンから、アドリア海トリエステまで、ヨーロッパを分断する鉄のカーテンが下ろされている」と言ったのはチャーチルである。東ヨーロッパの盟主はソビエト連邦であったが、もはやイギリスに西ヨーロッパのリーダーとなる国力はなかった。西ヨーロッパの戦後復興をリードし、自由主義陣営の盟主となったのはアメリカ合衆国であった。1947年のトルーマン・ドクトリンとマーシャル・プランがアメリカからヨーロッパに提唱されたことは、西ヨーロッパにおいてアメリカの存在が不可欠であることを如実に示していた。このアメリカを筆頭とする自由主義陣営と、ソ連を筆頭とする社会主義陣営の、直接戦火を交えない対立が冷戦である。以降1989年までのイギリス史は、基本的にこの冷戦の枠組みの中で進展していくことになった。
1949年、西ヨーロッパの新しい安全保障の枠組みとして北大西洋条約機構が発足した。イギリスはこれに原加盟国として参加し、アメリカの核の傘の中に入ることになった。また、イギリス自身も1952年に独自の核保有を行っている。