三国志 魏書 文帝紀 第二

三国志 魏書 文帝紀 第二

 冬十月発卯の日(一日)、布令を出していう、

丙午の日(四日)、曲蠡まで進んだ。

庚午の日(二十八日)、王は壇に登り帝位につき、百官は官位に従って陪席した。

 黄初元年(二二〇)十一月発酉の日(一日)、河内郡の山陽県のまち一万戸を漢帝の領邑として山陽公の称号を与え、漢の正朔(暦)をそのまま実施すること、天子の儀礼によって天を祭ること、上書の場合には「臣」と称えずともよいことを認め、都において太廟の祭事を行なったときには供物を届けることとし、公の四人の男子を列侯にとりたてた。

十二月、初めて洛陽宮を造営し、戊午の日(十七日)、洛陽に行幸した。

 この年、長水校尉の戴陵はたびたび狩猟に出かけるのはよろしくないと諫言した。


三国史記 巻第二十四 百済本紀第二

第六代 仇首王(在位二一四―二三四)

 七年(二二〇)冬十月、王城の西門が焼けた。
 抹褐が北部の辺境を侵したので、出兵して撃退した。