三国志 魏書 文帝紀 第二
二年(二二一)春正月、天地の祭りと明堂(政教の殿堂)の祭祀を執り行なった。甲戌の日(三日)、木柵を作って鳥獣の退路を塞ぎ、狩猟を行ない、原陵まで行き、使者をやって太牢(牛豚羊の犠牲)を捧げて漢の世祖(光武帝)を祭った。乙亥の日(四日)、東の郊外で太陽を祭った。
辛巳の日(十日)、三公の領邑を分割して、子弟のうち各一人を列侯にとりたてた。壬午の日(十一日)、頴川郡の一年間の田租を免除した。
三月、遼東の太守公孫恭に車騎将軍の官を加えた。
夏四月、車騎将軍の曹仁を大将軍に任命した。五月、鄭甘がふたたび反逆したので、曹仁に討伐させ、彼を斬った。六月庚子の日(一日)、はじめて五岳(泰山・華山・衡山・恒山・嵩山)と四瀆(長江・黄河・淮水・済水)を祭ったが、それら種々の祭祀をすべて格に応じて祭った。丁卯の日(二十八日)、夫人の甄氏がなくなった。戊辰の日(二十九日)、晦、日食があった。
第六代 仇首王(在位二一四―二三四)
八年(二二一)夏五月、国の東部に大水がで、山崩れが四十余ヵ所にもおよんだ。
蜀(221年 - 263年)