高麗史(世家)

高麗史(世家)
999年 十月 日本国人の道要弥刀等二十戸、来投す。之を利川郡に処らしめ、編戸となす。
1012年 八月三日、日本国の潘多等三十五人、来投す。
1019年 四月二十九日、鎮溟 船兵都部署の張渭男等、海賊八艘を獲。賊に掠められし日本の生口男女二百五十九人は、供駅令の鄭子良を遣わし、その国に押送す。
1029年 七月二十八日、耽羅の民の貞一等、日本より還る。初め貞一等二十一人、海に浮かび風に漂い、東南のかた極遠の島に到る。島人は長大にして、遍体毛を生じ、語言は殊異なり。劫し留めらるること七か月、貞一等七人は小船を窃み、東北のかた日本の那沙府に至り、乃ち生還するを得たり。
1036年 七月十六日、日本国、我が漂流人の謙俊等十一人を帰す。
1039年 五月十日、日本民の男女二十六人、来投す。
1049年 十一月二十日、東南海船兵都部署司奏す、「日本の対馬島の官、首領の明任等を遣わし、我が国の飃風人の金孝等二十人を押送し、金州に到る」と明任等に例物を賜うこと差あり。
1051年 七月十一日、日本の対馬島、使いを遣わし、被罪逃人の良漢等三人を押送す。
1056年 冬十月一日、日本国使の正上位権隷の藤原朝臣頼忠等三十人、金州に来り館す。
1060年 七月二十七日、東南海船兵都部署奏す、「対馬島、我が飄風人の礼成江民の位孝男を帰す」と。王、使者に礼物を賜うこと優厚なり。
1073年 七月五日、東南海都部署奏す、「日本国人の王則貞・松永年等四十二人来り、螺鈿鞍橋・刀・鏡匣・硯箱・櫛・書案・画屏・香炉・弓箭・水銀・螺・甲等の物を進めんことを請う。壱岐島の勾当官、藤井安国等三十三人を遣わし、亦た方物を東宮および諸令公府に献ぜんことを請う」と。制して、海道に由り、京に至るを許す。 十一月十二日、八関会を設け、神鳳楼に御し観楽す。翌日、大会す。大宋・黒水・耽羅・日本等の諸国人、各々礼物・名馬を献ず。

1074年 二月二日、日本国の船頭の重利等三十九人、来りて土物を献ず。
1075年 閏四月五日、日本商人の大江等十八人、来りて土物を献ず。 六月二十二日、日本人の朝元・時経等十二人、来りて土物を献ず。
七月十日、日本商五十九人来る。

1076年 十月十五日、有司奏す、「日本国の僧・俗二十五人、霊光郡に到り、告げて曰く、「国王の寿を祝う為め、仏像を雕成す。請う、京に赴き、以て献ぜんことを」と」と。制して、之を許す。
1078年 九月一日、日本国、耽羅の飄風民の高礪等十八人を帰す。
1079年 九月、日本国、我が飄風商人の安光等四十四人を帰す。 冬十一月五日、日本商客の藤原等来り、法螺三十枚・海藻三百束を以て興王寺に施し、王の為めに寿を祝う。

1080年 閏九月十一日、日本国の薩摩州、使いを遣わし、方物を献ず。
1082年 十一月九日、日本国の対馬島、使いを遣わし、方物を献ず。
1084年 六月二十日、日本国筑前州の商客の信通等、水銀二百五十斤を献ず。
1085年 二月十三日、対馬島の勾当官、使いを遣わし、柑橘を進む。
1086年 三月二十二日、対馬島の勾当官、使いを遣わし、方物を献ず。
1087年 三月二十日、日本商の重元・親宗等三十二人、来りて方物を献ず。 七月二十一日、東南道都部署奏す、日本国対馬島の元平等四十人、来りて真珠・水銀・宝刀・牛馬を献ず。

1089年 八月十九日、日本国の大宰府の商客、来りて水銀・真珠・弓箭・刀剣を献ず。
1093年 秋七月八日、西海道按察使奏す、「安西都護府轄下の延平島の巡検軍、海船一艘を捕らう。載る所の宋人は十二、倭人は十九。弓箭・刀剣・甲冑ならびに水銀・真珠・硫黄・法螺等の物あり。必ず是れ、両国の海賊、共に我が辺鄙を侵さんと欲する者ならん。其の兵杖等の物は、官に収納せんことを請う。捕らうる所の海賊は、並な嶺外に配し、其の巡捕せる軍士は賞せん」と。之に従う。
1116年 二月二日、日本国、柑子を進む。
1147年 八月十三日、日本の都綱の黄仲文等二十一人来る。
1169年 正月三十日、奉香里離宮に幸し、郡臣に宴し、仍りて宋商および日本国の進むる所の玩物を賜う。
1170年 春正月一日、王、賀を大観殿に受くるに、臣僚の賀表を親製し、群臣に宣示す。表に曰く、「三陽序に応じて、万物惟れ新たなり、玉殿春回りて、竜顔慶洽す。北使の寿を上りて、辞を致し、日域(日本)の宝を献じて、帝を称するより、常に天神の密助あり。
1216年 二月六日、日本国の僧、来りて其の法を求む。
1223年 五月二十二日、倭、金州に寇す。
1225年 夏四月八日、倭船二艘、慶尚道の沿海の州県に寇す。
1226年 正月二十七日、倭、慶尚道沿海州郡に寇す。巨済県令の陳竜甲、船師を以て沙島に戦い、二級を斬す。賊、夜、遁る。 六月一日、倭、金州に寇す。
1227年 四月十五日、倭、金州に寇す。防護別監の?旦が兵を発し、賊船二艘を捕らえ、三十余級を斬し、且つ獲る所の兵杖を献ず。 五月二日、倭、熊神県に寇す。別将の鄭金億等、山間に潜伏し、突出して七級を斬す。賊、遁る。
五月十七日、日本国は書を寄せ、賊船の辺を寇するの罪を謝し、仍りて修好し互市せんことを請う。
是の歳、及第の朴寅を遣わし、日本に聘せしむ。時に倭賊は州県を侵掠す。国家これを患い、寅を遣わして牒をもたらし、歴世の和好を以て、宜しく来侵すべからざるを諭す。日本は賊倭を推検し、之を誅す。侵掠、ややに息む。

1243年 九月二十九日、金州防禦官報ず、「日本国は方物を献じ、また我が漂風人を帰す」と。
1244年 春二月二日、有司劾奏す、「前の済州副使の?孝貞と判官の李?の在任せる時、日本商船の颶風に遇い、州境に敗れたるに、孝貞等私かに綾絹・銀珠等の物を取る。孝貞より銀二十斤、?より二十斤を徴し、島に流せ」と。
1259年 七月二十八日、監門衛録事の韓景胤と、権知直史館の洪貯を日本に遣わし、海賊を禁ずるを請わしむ。
1260年 二月三日、済州副使・判礼賓省事の羅得?を以て、防護使を兼ねしむ。朝議するに、「済州は海外の巨鎮なり、宋商と島倭と、無時往来す、宜しく特に防護別監を遣わし、以て非常に備うべし。然るに、旧制は但だ守倅のみ、防護を別置すべからず」と。ついに得?を以て、之を兼ねしむ。
1263年 二月二十二日、倭、金州管内の熊神県の勿島に寇し、諸州県の貢船を掠す。 四月五日、大官署丞の洪?と、�楡事府録事の郭王府等を遣わし、日本国に如きて、賊を禁ぜんことを請わしむ。牒に曰く、「両国の交通せるより以来、歳ごとに常に進奉すること一度、船は二艘を過ぎず。設し他船の他事に枉憑し、みだりに我が沿海の村里をみだすあらば、厳しく徴禁を加うるを似て定約となす。越えて今年二月二十二日、貴国の船一艘、故なく来りて、我が境内の熊神県界の勿島に入り、其の島に泊まる所の我が国貢船に載する所の多般の穀米、あわせて一百二十五石、紬布あわせて四十三匹を略い将ち去れり。また椽島に入り、居民の衣食・資生の具をば、尽く奪いて去れり。元定交通の意に於いて、甚だ大いに乖反す。今、洪?等を遣わし、牒をもたらして似て送らしむ。公牒を詳かにし、あわせて口陳を聴き、上項の奪攘人等を窮推して、尽く皆な微沮し、似て両国和親の義を固めん」と。
六月、日本官船大使の如真等、将に宋に入り、法を求めんとして風に漂い、僧・俗あわせて二百三十人は開也召島に泊まり、二百六十五人は群山・楸子の二島にいたる。大宰府の少卿殿は、「商船の七十八人、宋より将に本国に還らんとし、風に漂いて船を失い、小船を似て宣州の加次島に泊まる」と白す。全羅道按察使に命じて、糧・船を給し、其の国に護送せしむ。
秋七月二十七日、日本商船の三十人、風に漂い亀州の?島にいたる。命じて糧を賜い、護送せしむ。
八月一日、洪?・郭王府等、日本より還り、奏して曰く、「海賊を窮推するに、すなわち対馬島の倭なり。米二十石・馬麦三十石・牛皮七十領を徴して来る」と。

1265年 秋七月一日、倭、南道の沿海州群に寇す。将軍の安洪敏等に命じ、三別抄軍を率い、之を禦がしむ。
1266年 十一月二十五日、蒙古、黒的・殷弘等を遣わし来り、詔して曰く、「今、爾が国の人の趙彝来り、「日本は爾が国と近隣をなし、典章・政治の嘉するに足る者あり。漢・唐より而下、またあるいは使いを中国に通ず」と告ぐ。故に今、黒的等を遣わし日本に住かしめ、与に通和せんと欲す。卿、其れ、去使を道達し、似て彼の疆を撤して東方を開悟し、向風・慕義せしめよ。この事の責は、卿、宜しく之に任ずべし。風濤の険阻なるを似て、辞と為す勿れ。末だかつて通好せざるを似て、解となす勿れ。彼れ命に順わず、去使を阻むあるに托せんことを恐る。卿の中誠、斯に於いて見るべし。卿、其れ、之を勉めよ」とのたまう。**十一月二十八日、枢密院副使の宋君斐と、侍御史の金賛等に命じ、黒的等と与に日本に住かしむ。
1267年 春正月、宋君斐・金賛、蒙使と与に巨済の松辺浦に至り、風濤の険を畏れ、ついに還る。王、また君斐をして黒的に随い、蒙古に如かしめ、奏して曰く、「詔旨に諭したまう所の、使臣を道達して日本に通好するの事は、謹みて陪臣の宋君斐等を遣わし、使臣に伴いて似て住かしむ。巨済県に至り、はるかに対馬島を望むに、大洋万里、風濤の天を蹴るを見、意謂えらく、「危険なること此の若し。安んぞ上国の使臣を奉じ、険を冒して軽々しく進むべけんや。対馬島に至るといえども、彼の俗は頑�愿にして礼義なし。設し不軌するあらば、将た之を如何せん」」と。是を似て、与倶にして還れり。且つ日本は、素より小邦と末だ嘗て通好せず。但だ対馬島の人、時に貿易に因りて、金州に往来するのみ。小邦、陛下の即祚せるより以来、深く仁恤を蒙り、三十年の兵革の余、稍々に蘇息するを得、緜緜と存喘す。聖恩は天大にして、誓いて報?せんと欲す。如しなすべきの勢いありて、心力を尽さざらんには、天日の如きものあり」と。 八月一日、黒的・殷弘および宋君斐等、復び来る。帝、諭して曰く、「向者、使いを遣わし日本を招懐せしむるに、卿に嚮導を委ねたり。意わざりき、卿の辞を似て解となし、ついに徒らに還らしめんとは。意うに、日本、すでに通好せば、則ち必ず尽く爾が国の虚実を知る。故に、托するに他辞を似てするならん。然れども、爾が国の人の京師に在る者少なからず、卿の計もまた疎かなり。且つ天命は�槹を難んじ、人道は誠を貴ぶ。卿は先後食言すること多し。宜しく自省すべし。今、日本の事、一に卿に委ぬ。卿、其れ、朕の此の意を体し、日本に通諭して、必ず要領を得るを似て期となせ。卿、嘗て言あり、「聖恩は天大にして、誓いて報効せんと欲す」と。此れ、報効に非ずして、何ぞや」とのたまう。
八月二十三日、起居舎人の潘阜を遣わし、蒙古書および国書をもたらし、日本に如かしむ。蒙古書に曰く、「大蒙古皇帝、書を日本国王に奉ず。朕惟うに、古より小国の君は、境土相い接すれば、尚お講信・修睦に務む。況んや我が祖宗、天の明命を受けて、区夏を奄有するをや。遐方・遠域の威を畏れ徳に懐く者は、悉く数うべからず。朕、即位の初め、高麗無辜の民の、久しく鋒鏑つかるるを似て、即ち兵を罷めしめ、その疆域を還し、その旄倪を返す。高麗の君臣、感戴して来朝し、義は君臣といえども、歓ぶこと父子の若し。計るに、王の君臣もまた、已にこれを知るならん。高麗は朕の東藩なり。日本は(高麗に)密邇し、開国より以来、また時に中国に通ずるに、朕の躬に至りて、一乗の使いの似て和好を通ずるなし。尚お恐る、王の国のこれを知ること、末だ審かならざるを。故に使いを遣わし、書を持して、朕の志を布告せしむ。冀わくは、自今似往、通問して好みを結び、似て親睦せん。且つ聖人は至りては、夫れ、孰れか好む所ぞ。王、それ、これを図れ」とのたまう。国書に曰く、「我が国、蒙古大国に臣事し、正朔を稟くること年あり。皇帝は仁明にして、天下を似て一家となしたまい、遠きを視ること邇きが如く、日月の照らす所、みなその徳を仰ぐ。今、貴国に通好せんと欲して、寡人に詔して云う、「日本は高麗と隣りをなし、典章・政治の嘉するに足る者あり。漢・唐より而下、しばしば中国に通ず。故に、特に書を遣わし、似て往かしむ。風濤の阻険なるを似て、辞となす勿れ」とのたまう。その旨、厳切なり。茲にやむを獲ず、某官の某を遣わし、皇帝の書を奉じて前去しむ。貴国の中国に通好するや、代々これなきはなし。況んや今、皇帝の貴国に通好せんと欲したまうは、その貢献を利とするに非ず。蓋し無外の名を似て、天下に高くせんと欲するのみ。若し貴国の通好するを得ば、必ず厚くこれを待すべし。それ、一介の士を遣わし、似て住きて、これを観ること何如。貴国、商酌せよ」と。
十一月十一日、弟の安慶公唱を遣わし、蒙古に如き、賀正せしむ。因りて、更に藩阜を遣わし、日本に使いせしめたるを告ぐ。

1268年 二月二十一日、初め帝、趙彝のそしりを似て、怒り解けたまわず。親ら?に勅して曰く、「前日、爾が国の奏せる所、朕、今、これを説わん。爾、それ、詳しく聴け。(中略)爾の日本と交通せるは、爾が国の人の来りて此に居る者、これを知らざるなし。爾、前日に於いて、何ぞ末だ嘗て交通せずと言い、似て朕を欺きしか。爾等の奉する所は、皆な是れ妄説なり。必ずしも答えず」とのたまう。 秋七月十八日、起居舎人の藩阜、日本より還る。閣門使の孫世貞、郎将の呉惟碩等を遣わして蒙古に如き、節日を賀せしむ。また藩阜を遣わして、偕に行かしめ、上書して曰く、「向に臣に詔して、似て日本に宣諭せしめたまう。臣、即ち陪臣の藩阜を差わし、皇帝の璽書を奉じ、ならびに臣の書および国贐をもたらし、前年の九月二十三日似て、船を発して住く。今年の七月十八日に至り、回り来りて云う、「彼の境に到りてより、便ち王都に納れず、西偏の大宰府なる者に留置さるること凡そ五か月、館待甚だ薄し。授くるに詔旨を似てするも、而も報章なし。また国贐を贈り、多方告諭るも、竟に聴かず。逼りて之に送らる。故を似て、容領を得ずして還れり」と。末だ聖慮に副わず、惶懼すること実に探し。すなわち、茲に陪臣の藩阜等を差充し、似て奏す」と。
十月十三日、蒙古、明威将軍・都統領の脱朶児と、武徳将軍・統領の王国昌と、武略将軍・副統領の劉傑等十四人を遣わし来る。詔して曰く、「卿、崔東秀を遣わし来りて、備兵一万・造船一船隻の事を奏す。今、特に脱朶児等を遣わし、彼に就きて軍数を整閲し、舟艦を点視せしむ。其の造る所の船隻は、去官の指画を聴け。もし耽羅の已に造船の役に与りたれば、必ずし煩重すべからず。もし其れ与らずんば、即ち別に百艘造らしめよ。其の軍兵・船隻、整点して足備せば、或いは南宋、或いは日本。逆命征討のことは、時に臨みて宜しきを制せしむ。仍りて差去せる官が先行し、黒山・日本道路を相い視しむ。卿もまた官を差わして、護送せしめよ」とのたまう。
十月二十二日、郎将の朴臣甫と、都兵馬録事の禹天錫を遣わし、国昌・劉傑等に従い、住きて黒山島を視しむ。
十一月二十日、黒的等、詔を伝う。其の詔に曰く、「向に、卿に去使を道達し、日本に送至するのを委ぬ。卿、乃ち辞を飾り、風浪険阻なるを以て、軽々しく渉るべからずと為せり。今、藩阜等、何に由りて達し得たるか。羞ずべく畏るべきの事、卿、已に之を為せり。復た何をか言わんや。今、来り奏し、藩阜の日本に至るや、逼りて送還さるの語あり。これもまた、安んぞ信を取るに足らんや。今、復び黒的・殷弘等を遣わし、使いに充てて以て住かしめ、必ず達せんことを期す。卿、当に重臣をして道達せしむべし、前の如く稽阻を致す毋かれ」とのたまう。
十二月四日、知門下省事の申思?、侍郎の陳子厚、起居舎人の藩阜は、黒的・殷弘とともに日本に如く。

1269年、三月十六日、黒的及び申思?等、対馬島に至り、倭人二人とらえて似て還る。 夏四月三日、参知政事の申思?を遣わし、黒的に伴い、倭人二人を以って、蒙古に如かしむ。
五月二日、慶尚道按察使、馳報す、「済州人の漂風して日本に至り、還りて、「日本、兵船を具して、将に我に寇せんとす」と言う」と。是に於いて、三別抄及び大角班を遣わし、海辺を巡戍せしむ。また沿海の群県をして、城を築き殻を積ましめ、彰善県所蔵の国史を珍島に移す。
七月二十二日、

1272年 正月十八日、趙良弼、日本より還る。書状官の張鐸を遣わし、日本使十二人を率いて、元に如かしむ。王、訳語・郎将の白?を遣わし、表賀して曰く、「盛化旁流して、はるかに日生(日本の事)の域におよび、殊方率服して、悉く天覆の私を欣ぶ。惟だ彼の倭人は、鰈海に処る。宣撫使の趙良弼、年前九月を似て、金州の境に至り、装舟し放洋して住く。是年正月十三日、日本使・佐一十二人とともに、合浦県の界に還到せり。則ち此れ、誠に聖徳の懐綏に由る。彼れ、則ち皇風に嚮いて慕順し、一朝海を渉り、始めて爾の職を修む。而して万里を来りて天を膽る。曷ぞ、臣心の喜びを極めん。茲に賤介を馳せ、宸庭に仰ぐ」と。 二月十日 中書省、牒して曰く、「世子の�槹の云うに拠るに「吾が父子、相い継ぎ朝覲し、特に恩宥を蒙り、小邦の人民は、遺?を保つを得たり。感戴の誠は、言うは不可なり。すでに�槹は連年入覲し、毎に皇恩を荷い、区区の忠は、ますます切に效をいたす。惟だ彼の日本のみ、末だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、継いで軍容を耀かし、戦艦・兵糧は方に須むる所在り。もしこのこの事を以て臣に委ぬれば、勉めて心力を尽くし、小しく王師を助くるに庶幾からん」と都省奏す、「聖旨を奉じて、世子をして、親しく自ら去かしめよ。尚書省の馬郎中をして做伴せしめ、当に去かしむべし」と」と。時に世子、久しく燕京に留まる。従者は皆な東帰を愁等し、世子に勧むるに、東征の事を以てし、帝に請いて還らんとす。薛仁倹・金?等、不可として曰く、「世子のここに在るは、将に社稷を衛らんとするを以てなり。今、これの事を請い、以て還らば、則ち本国如荷せん。世子、之を寝めよ」と。たまたま、林惟幹これを聞き、これに仮りて先に東還を請い、没せられし所の田民・財宝を復た収めんと欲す。世子これを知り、やむを得ず帝に請う。国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。