太宗(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)

太宗は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからは炅に改めた。


後晋の天福4年(939年)に浚儀県(開封市)の官舎で、趙弘殷の三男として生まれる。子供のころから傑出しており、学問を好んだ。父の弘殷は匡義のために、淮南を征伐した際、州や県を占領しても財貨には一切目もくれず、古書を探して匡義に贈ったという。兄・趙匡胤が後周の将軍であった頃から常に協力し続け、趙普らと主導した陳橋の変の際に匡胤を擁立する時も、中心となって匡胤の説得に当たった。
太祖が即位後、晋王に封じられ、序列は宰相より上に置かれた。太祖が親征を行うと、大内點検(近衛軍の将軍にあたる)や東都(都の開封のこと)留守に任じられるなど、太祖の右腕として重責を担った。太祖が死去してから、当然息子が後を継ぐところを弟の太宗が即位したことには、非常に不可解な点が多く、「千載不決の議」と呼ばれ、太宗による暗殺説も消えなかった。また、後に太祖の長子趙徳昭を自殺させ、太祖の次子の趙徳芳が981年に不可解な死を遂げた後に自らの息子の趙恒を太子としたことは、正統論の厳しい宋においては常に糾弾の声が絶えなかった。
978年には独立勢力であった泉州節度使陳洪進が領土を納め、呉越の銭俶も両浙の13州を献上し、翌年の979年に北漢を滅ぼし、中国の再統一を達成した。その余勢を駆って遼から燕雲十六州の回復を狙って親征の軍を起こして進撃するが、高粱河において敗れ、開封に撤退した。また980年にはベトナムの黎桓を討つが、遠征軍は敗退した。
内政面では太祖の路線を踏襲し、軍事力を重視せず、科挙による文官の大量採用を行い、監察制度を整えることで、それまでの軍人政治から文治主義への転換に成功した。
997年、崩御した。
太宗の評価
『宋史』は、太宗の治世中に陳洪進・銭俶らの群雄を統合し、北漢を討って中華をほぼ統一したことを高く評価している。その治世中には北漢や遼、ベトナム西夏などの相次ぐ戦役や、黄河の決壊や蝗害などの天災が起こったものの、民衆が反乱を起こさなかったのは、太宗の倹約と慈を旨とした政治のおかげだとしている。
ただ、本来なら先代の太祖が死んだ時、年が変わるのを待って改元するべきであったこと、太祖の子の趙徳昭が自殺してしまったこと、先代の皇后であった宋后の喪を行わなかったことなどは非難されてもやむを得ないことだとしている。また、太祖の死と自身の帝位継承、その後に起きた太祖の次子・趙徳昭や実弟・趙廷美への対応から千載不決の議と呼ばれる議論が起きている。
太宗の逸話
水滸伝』の宋江のモデルは太宗であるという説が古くからあり、森鴎外が『標新領異録』で触れている他、東京大学教授の大塚秀高も同様の説を唱えている。
対日本観
太宗は日本の使者である僧の奝然を厚遇し、紫衣を賜り、太平興国寺に住まわせた。ある日に引見した際、日本の国王(天皇)は代々一家が世襲し(万世一系)、その臣下も官職を世襲していると聞き、嘆息して
「島夷(日本、東の島の異民族/蛮族)であると言うのに、彼ら(天皇家)は万世一系であり、その臣下もまた世襲していて絶えていないという。これぞまさしく古の王朝の在り方である。中国は唐李の乱(李克用による禅譲)により分裂し、五代は王朝こそ継承したが、その期間は短く、臣下も世襲できる者は少なかった。我が徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、臣下の子等に官位を継がせることこそが我が願いである」
(此島夷耳 乃世祚遐久其臣亦継襲不絶 此蓋古之道也 中国自唐李之乱寓縣分裂梁周五代享歴尤促 大臣世冑鮮能嗣続 朕雖徳慙往聖常夙夜寅畏講求治本不敢暇逸建無窮之業 垂可久之範 亦以為子孫之計 使大臣之後世襲禄位此朕之心焉)
と宰相に言った。(『宋史』日本伝)
太宗は、皇帝のみならず臣下も下克上なしに続く王朝(理想上における太古の王朝)を目指していたことがわかる。