太政大臣良房 忠仁公

大鏡 第二巻 一 太政大臣良房 忠仁公

 太政大臣良房公――この大臣は、左大臣冬嗣公のご次男です。天安元年二月十九日に太政大臣におなりでした。同じ年の四月十九日に御年五十四歳で従一位にお進みでした。


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延暦23年(804年)延暦24年(805年)7月
藤原葛野麻呂(大使)・石川道益(副使)
空海(留学僧)・最澄(請益僧)・義真(最澄の弟子。訳語)・橘逸勢(留学生)・霊仙・伴雄堅魚(碁師)・菅原清公(遣唐判官)・三棟今嗣(遣唐判官)
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803年に出発するがすぐに船が損傷し航行不能となる。翌804年7月に再度出発した。往途、第3船、肥前松浦郡座礁遭難。第4船も遭難し、大使と空海らの第1船、副使石川道益と菅原清公・最澄らの第2船のみが中国に到達した。第3船と第4船を捜索するために、当時の風向きなどを考慮して大伴峰麻呂が遣新羅使として派遣されている。第3船の三棟今嗣らは船を放棄・脱出して大宰府まで帰り着く。第4船は行方不明。葛野麻呂の第1船は8月に福州に漂着。現地で役人に海賊の疑いをかけられ50日間待機させられる。このとき葛野麻呂が福州の長官へ嘆願書を書いたが悪文悪筆で却って嫌疑を招いたため、代わりに全く無名の留学生だった空海(のちの三筆)が嘆願書を代筆し、嫌疑が晴れた。同年11月3日に長安入りを許され、12月23日に長安入りし、徳宗への謁見を果たす。一方明州に到着した第2船に乗船していた副使の石川道益、病に伏し唐で没。一行は805年1月の徳宗崩御と順宗の即位に遭遇。同年5月に明州から帰国の途に就き、6月5日対馬を経由して7月に帰国。同期の遣唐使であるが、この頃既に名声のあった最澄と一介の学僧の空海は、この時点で面識はほぼ無く、唐でも目的を別にして全く別行動を取っている。いわゆる短期留学生の最澄は大使らと共に帰国した。また、留学生の橘逸勢は語学が苦手だったようであり、現地での言葉の壁による学習の障害を嘆いている。このため逸勢は話し言葉の疎通をあまり必要としない琴と書を熱心に学び、のちの帰国後その道の第一人者となった(のちの三筆)。


三国史記 巻第一〇 新羅本紀第一〇

第四〇代 哀荘王(在位八〇〇―八〇九)

 五年(八〇四)春正月、伊食の秀昇を中侍にした。
 夏五月、日本国が使者を派遣し、黄金三百両を進上した。
 秋七月、〔王は〕於川(慶州市北川)の河原でさかんに閲兵を行った。
 挿良州が白昔を進上した。
 ふたたび臨海殿を修繕し、新たに東宮の万寿房を創建した。