第三六代 恵恭王(在位七六五―七八〇)

三国史記 巻第九 新羅本紀第九

第三六代 恵恭王(在位七六五―七八〇)

 十五年(七七七)春三月、王都に地震があり、民家を壊し、死者百余人をだした。太白(金星)が月と重なった。百高座の法会を開催した。



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宝亀8年(777年)宝亀9年(778年)
小野石根(持節副使・大使代行)・大神末足(副使)
/佐伯今毛人(大使)・大伴益立(副使)・藤原鷹取(副使)
海上三狩(遣唐判官)・大伴継人(遣唐判官)・韓国源 (遣唐録事)
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776年4月に任命された大使・佐伯今毛人らは博多を出航するも順風が吹かないことを理由に一旦博多に帰還。佐伯は来年夏への延期を奏上して許可され、11月に大宰府から都に帰還し節刀を返上。この間も遣唐副使の大伴益立や判官・海上三狩らは大宰府に留まり入唐の期を窺っていたが、12月に大伴益立・藤原鷹取の両副使は更迭され、替わって副使に小野石根と大神末足が任命された。しかし翌777年4月の佐伯は都を出た時点で病と称し、難波津より先に行くことを拒否。同年6月に副使であった小野石根が大使代行として使節団は渡航した。光仁天皇から藤原清河に対しての帰朝の命令の書簡が出されるなど、藤原清河を迎える目的もあった使節だが、小野石根らが長安入りしたこの年5月頃、清河は既に死去していた。同年1月には阿倍仲麻呂も死去。翌778年3月に皇帝代宗へ拝謁し、同年9月に順次帰国の途に就いた。9月5日に出航した第1船は8日に嵐で遭難し大破し破断。小野石根、唐使趙宝英ら死亡。同船に乗っていた大伴継人や藤原清河と唐人の間に生まれた娘の藤原喜娘ら40余名は2つに裂けた船の片方の残骸にしがみついて漂流。肥前国天草郡西仲嶋(現在の鹿児島県出水郡長島)に漂着し、11月に平城京に入った。第4船の海上三狩らは楚州塩城県から出帆するが、耽羅島(済州島)に流れ着いてしまい島人に略奪され船を留置された。ここで録事・韓国源ら40余名は島からの脱出に成功し、同年11月に薩摩国甑島郡へ到着した。三狩はそのまま残されたが、日本からの要請を受けて捜索していた新羅に発見される。翌779年2月に三狩らを迎えるために大宰少監・下道長人が遣新羅使に任ぜられ、同年7月に三狩は帰国。なお佐伯・大伴益立・藤原鷹取らは777年中から779年にかけて官界に復帰している。