第三〇代 文武王(在位六六一―六八一)

三国史記 巻第七

新羅本紀第七 文武王 下

第三〇代 文武王(在位六六一―六八一)

 十四年(六七四)春正月、唐にいって宿衛をしていた大奈麻の徳福が、暦術を学び伝えて帰国し、あらためて新暦法を採用した。


サクスブルフ(Seaxburh、古英語:SEAXBVRG VVESTSEAXNA CVEN、羅:SEAXBVRH REGINA SAXONVM OCCIDENTALIVM、生没年不詳、7世紀)はウェセックス王家に連なる人物で、後にウェセックスの女王として列せられた女性。日本語ではセクスブーフとも書かれる。
先代王で夫であったチェンワルフが没すると翌年伝統に従って王位に就任、ウェセックスの女王となった。似たような同時代人の名前にイースト・アングリア王アンナの娘で聖女に列せられたエリーのサクスブルフがいる。
サクスブルフはまたチェンワルフの最初の妻ではなく、先妻にはマーシア王ペンダの娘がいた。彼女がいつ王家の妻として嫁いだかは不明、またこの婚儀を通じて子供を授かったかどうかも分かっていない。しかしながら同時代のフランク王国メロヴィング朝において王妃ブルンヒルダとフレデグンドが息子や孫を通じて権勢を誇った史実から察すると、彼女もまた名の知られていない息子の代理として統治していた可能性がある事が示唆されている。
675年にはサクスブルフの名は歴史の表舞台から姿を消しており、この時代にはエシュウィネが西サクソン族を統治してマーシア王国のウルフヘレを圧倒する事となった。


エシュウィネ(Æscwine、古英語:ÆSCVVINE CENFVSING VVESTSEAXNA CYNING、羅:ÆSCVVINE REX SAXONVM OCCIDENTALIVM、没年676年頃)とはウェセックス王家に連なる人物で、後世ウェセックス王として列せられている。しかしながら、彼がこの時代のウェセックスを治めた単独の王であったとは考えられてはいない。
後世の歴史家ベーダ・ヴェネラビリスはウェセックス王チェンワルフ没後の時代をこう書いている:
王国と人々は彼の副王たちによって引き継がれ、王国は彼らのもとで分裂した。そしてその状態は10年続いた。

― 『イングランド教会史』第5巻第12章

西サクソン族の伝承ではチェンワルフの後、妻サクスブルフが一年間女王として王位に就き、その後エシュウィネの名が書き残されているが、別の文献ではサクスブルフの後、父チェンフス(Cenfus)が王位に2年間就き、その後にエシュウィネによって引き継がれたとされている。
アングロサクソン年代記ではエシュウィネの統治は674年より始まるとされている。この項目にはまた彼の出自の系譜が記述されており、それによると彼はキュンリッチから5代目の子孫とされている。ベーダはエシュウィネを副王とさえもしてはいない。この姿勢からベーダは彼をウェセックス王イネを擁立する支持者の一人として見なしていた事が伺える。イネはベーダの生きた時代にウェセックスを治めていた王家の始祖であり、イネの家系はまたチェウリンの息子クスウィネを通じてキュンリッチにつながる貴種の子孫としていた。
675年、エシュウィネは「ビーダンヘフデ(Biedanheafde)」でマーシア王ウルフヘレの侵入を退け、これを敗った。この地がどこであったかは特定できていない。
エシュウィネの死後、王位はチェントウィネによって引き継がれた。