『隋書』倭国伝

『隋書』倭国

 大業三年(煬帝、推古十五年・六〇七)、その王多利思比狐が、使(小野妹子)を遣わして朝貢した。使者がいうには「海西の菩薩(梵語Bodhisattva菩提薩垂の略、大道心衆生・道衆生・覚有情大士、高士などと訳す。大勇猛心をもって衆生を済わんとする者、仏につぐ位置にある)天子が重ねて仏法を興す、と聞いている。故に遣わして朝拝させ、かねて沙門(梵語、沙門那の略、勤息・止息などと訳す。僧尼・桑門)数十人が、中国に来て仏法を学ぶのである」と。その国書にいうには、

  日出ずる処の天子が、書を日没する処の天子に致す、恙はないか、云々

と。帝はこれをみて悦ばず、鴻櫨卿(いまの外相)に命じた、「蛮夷(倭国をさす)の書は、無礼なところがある。ふたたび以聞(天子に申上げる)するな」と。



三国史記 巻第二十七

百済本紀第五 武王

第三〇代 武王(在位六〇〇―六四一)

 八年(六〇七)春三月、杵率(干率。第五等官位)の燕文進を隋に派遣し、朝貢させた。また、佐平の王孝隣を派遣し朝貢させるとともに、高句麗を討伐するよう願いでた。煬帝はこれを許し、高句麗の動静をうかがうよう命じた。