『隋書』倭国伝

隋書 巻八一 東夷伝倭国(『隋書』倭国伝)

 開皇二十年(文帝、推古八年、六〇〇)、倭王がおり、姓は阿毎(アメ・天か)、字は多利思比狐(タリシヒコ・足彦・帯彦か)、阿輩雛弥(オホキミ大君、アメキミ天君か)と号した。使を遣わして関(隋都長安)の詣った。上(文帝)は役人(係官)にその風俗を訪ねさせた。使者がいうには「倭王は天を兄とし、日を弟としている。天がまだ明けないとき、出かけて政を聴き、あぐらをかいて坐り、日が出れば、すなわち理政をとどめ、わが弟に委せよう、という」と。高祖(第一代文帝、五八一―六〇四在位)は「これは大いに義理のないことだ」といって、訓えてこれを改めさせた。王の妻は雛弥(キミ・后か)と号する。後宮(宮中の妃嬪の居る所、奥御殿・内宮・後庭)に女が六、七百人いる。太子を名づけて利歌弥多弗利(和歌弥多弗利か、ワカミヒラ・稚足、ワカミトホリ・若い御世嗣、ここでは聖徳太子)となす。城郭はない。


遣隋使とは、推古朝の倭国(俀國)が隋に派遣した朝貢使のことをいう。600年(推古8年)〜618年(推古26年)の18年間に5回以上派遣されている。なお、日本という名称が使用されたのは遣唐使からである。
600年(推古8年)第1回遣隋使派遣。この頃まだ俀國は、外交儀礼に疎く、国書も持たず遣使した。(『隋書』俀國伝)
607年(推古15年) - 608年(推古16年)第2回遣隋使、小野妹子らを遣わす。「日出処の天子……」の国書を持参した。小野妹子、裴世清らとともに住吉津に着き、帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
608年(推古16年) - ? (『隋書』煬帝紀)
608年(推古16年) - 609年(推古17年)第3回遣隋使、小野妹子・吉士雄成など隋に遣わされる。この時、学生として倭漢直福因・奈羅訳語恵明・高向漢人玄理・新漢人大圀・学問僧として新漢人日文(後の僧旻)・南淵請安ら8人、隋へ留学する。隋使裴世清帰国する。(『日本書紀』、『隋書』俀國伝)
610年(推古18年) - ? 第4回遣隋使を派遣する。(『隋書』煬帝紀)
614年(推古22年) - 615年(推古23年)第5回遣隋使、犬上御田鍬・矢田部造らを隋に遣わす。百済使、犬上御田鍬に従って来る。(『日本書紀』)
618年(推古26年)隋滅ぶ。
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三国史記 巻第四 新羅本紀第四

第二六代 真平王(在位五七九―六三二)

 二十二年(六〇〇)、高僧の円光が朝聘使の奈麻の諸文や大舎の横川に随って帰国した。


三国史記 巻第二十七

百済本紀第五 法王

第二九代 法王(在位五九九―六〇〇)

 二年(六〇〇)春正月、王興寺を創建して、三十人を僧侶とした。
 ひどい旱魃〔が続いたので〕、王は漆岳寺に行幸し、雨〔の降るの〕を祈願した。