那津(筑紫)官家の整備

日本書紀 巻第十八 宣化天皇 武小広国押盾天皇

 四年春二月十日、天皇は桧隈慮入宮に崩御された。時に、年七十三歳。


日本書紀 巻第十九

      欽明天皇 天国排開広庭天皇

秦大津父

 天国排開広庭天皇継体天皇の嫡子である。母を手白香皇后という。父の天皇はたいへんこの皇子を可愛がって常にそばに置かれた。まだ幼少のおり、夢に人が現われ、「天皇が秦大津父という者を、寵愛されれば、壮年になって必ず天下を治められるでしょう」といった。夢が覚めて使いを遣わし、広く探されたら、山城国紀郡の深草の里に、その人を見つけた。名前は果して見られた夢の通りであった。珍しい夢であるとたいへん喜ばれ、秦大津父に「何か思いあたることはなかったか」と問われると、「特に変わったこともございません。ただ私が伊勢に商いに行き、帰るとき、山の中で二匹の狼が咬み合って、血まみれになったのに出会いました。そこで馬からおりて、手を洗い口をすすいで、『あなたがたは恐れ多い神であるのに、荒々しい行ないを好まれます。もし猟師に出会えば、たちまち捕われてしまうでしょう』といいました。咬み合うのをおしとどめて、血にぬれた毛を拭き、洗って逃がし、命を助けてやりました」とお答えした。天皇は「きっとこの報いだろう」といわれ、大津父を召され、近くにはべらせて、手厚く遇された。大津父は、大いに富を重ねることになったので、皇位をおつぎになってからは、大蔵の司に任じられた。
 四年冬十月、宣化天皇崩御された。皇子であった欽明天皇は、群臣に、「自分は年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后(安閑天皇の皇后)は政務に明るく慣れておられるから、皇后に政務の決裁をお願いするように」といわれた。
 山田皇后は恐れかしこまって辞退され、「私は山や海も及ばぬほどの恩寵をこうむっております。国政の処理の難しいことは、婦女の預かれるところではありませぬ。今、皇子は老人を敬まい、幼少の者を慈しみ、賢者を尊んで、日の高く昇るまで食事もとらず、士(立派な人)をお待ちになります。また幼時から抜きんでてすぐれ、声望をほしいままにし、人となりは寛仁で、あわれみ深くいらっしゃいます。諸臣よ、早く天下に光を輝かせて頂くようにお願いしなさい」と仰せられた。
 冬十二月五日、欽明天皇は即位された。年は若干であった。皇后(山田)を尊んで、皇太后と申しあげた。大伴金村大連・物部尾輿大連を大連とし、蘇我稲目宿禰大臣を大臣とすることは、もとの通りであった。