第一九代 訥祇麻立干(在位四一七―四五八)

三国史記 巻第三 新羅本紀第三

第一九代 訥祇麻立干(在位四一七―四五八)

 四十二年(四五八)春二月、地震が起こった。
 金城の南門がひとりでに壊れた。
 秋八月、王が薨去した。


日本書紀 巻第十四

雄略天皇 大泊瀬幼武天皇

 二年秋七月、百済の池津媛は、天皇が宮中に入れようとしておられたにもかかわらず、石川楯と通じた。天皇は大いに怒って、大伴室屋大連に命じて、来目部を使い、夫婦の四肢を木に張りつけて、桟敷の上に置かせて、火で焼き殺させた。

  ――百済新撰には、己巳の年、蓋歯王が即位した。天皇は阿礼奴跪を遣わして、美女を乞わせた。百済は暮尼夫人の娘を飾らせて、適稽女郎と呼び、天皇にたてまつったという。――


 冬十月三日、吉野宮に行幸された。六日、御馬瀬においでになった。山係りの役人に命じ、思うままの狩りをされた。いくつもの峯に登り、広い原を駈け、日も傾かない中に、十中八九は獲物を収め、鳥獣も尽きるかと思うほどであった。ついに林泉にめぐり合って水辺に休憩した。車駕を整え士卒を休ませ、群臣に問われた。

 倭の采女日媛に、酒をささげお迎えをさせられた。天皇采女の顔が端正で、容姿が上品なのをご覧になって、顔をほころばせ悦びの色をしめして、「自分は、どうしてお前の美しい顔を見ないでいられようか」といわれ、手を組み合って後宮に入られた。

 皇太后天皇の喜ばれる様子をご覧になり、自らも悦びお笑いになった。

 この月史戸・河上舎人部を設けられた。天皇は自分の心だけで専決されるところがあり、誤って人を殺されることも多かった。天下の人々はこれを誹謗して、「大変悪い天皇である」といった。ただ可愛がられたのは、史部の身狭村主青・桧隈民使博徳らだけである。