第17代 履中天皇 400年2月1日〜405年3月15日

日本書紀 巻第十二 履中天皇

 去来穂別天皇仁徳天皇の第一皇子である。母を磐之媛命という。葛城襲津彦の女である。仁徳天皇の三十一年春一月、立って、皇太子となられた。――年十五.
 八十七年春一月、仁徳天皇崩御された。

 太子はすでに石上の振神宮においでになった。瑞歯別皇子(後の反正天皇)は、太子のおいでにならぬことに気づいて、尋ねて追ってこられた。しかし太子は弟王の心を疑われてよばれなかった。

 ときに近習の隼人があった。刺領巾という。

 元年春二月一日、皇太子は磐余の稚桜宮に即位された。


三国史記 巻第十八

高句麗本紀第六 故国原王 小獣林王 故国壌王 広開土王 長寿王

第一九代 広開土王(在位三九二―四一三)

 二月、燕王の盛は、わが王が〔燕にたいする〕儀礼を怠っているとして、盛自ら二万の軍隊を率いて、〔わが国を〕襲撃した。〔そのとき〕票騎大将軍の慕容熙を前鋒隊とし、新城・南蘇二城を攻略し、七百余里の土地を奪い、五千余戸を連れて帰国した。


三国史記 巻第二十五 百済本紀第三

第一七代 阿辛王(在位三九二―四〇五)

 九年(四〇〇)春二月、星勃(ほうき星)が奎宿や婁宿にあらわれた。