第一七代 奈勿尼師今(在位三五六―四〇二)

三国史記 巻第三 新羅本紀第三

第一七代 奈勿尼師今(在位三五六―四〇二)

 二十一年(三七六)秋七月、夫沙郡が一角の鹿を奉った。


三国史記 巻第二十四 百済本紀第二

第一四代 近仇首王(在位三七五―三八四)

 近仇首王(分注。緯は須ともいう)は、近肖古王の子である。これよりさき、高句麗の国岡王斯由(故国原王)が自ら侵入して来たので、近肖古王は太子(近仇首王)を派遣し、邀撃させた。〔百済軍が〕半乞壌に到着し、いよいよ戦おうとしたとき、高句麗人の斯紀はもと百済人で、誤って国〔王の〕馬蹄を傷つけ、罪を懼れて、高句麗に逃れたが、このときになって帰って来て、太子に、

  彼〔の高句麗軍〕は多いけれども、みな数だけをそろえた擬兵で、そのうち、強く勇ましい〔部隊〕は、ただ赤旗〔の部隊〕だけです。もし、まずこれを撃破すれば、その余は攻めなくても自滅します。

と告げた。〔そこで〕太子はこれに従って進撃し、大いにこれを破り、奔る〔高句麗軍〕を追い、水谷城の西北についた。将軍の莫古解が諫めて、

  むかし、道家の言をきくと、「足るを知るものは、辱めをうけない。止まるを知るものは台うくない」。いま得るところが多いのに、どうして、これ以上多くを求める必要がありましょうか。

といった。太子はこれをよしとして、〔軍を〕止めて、石を積み、〔戦勝の〕しるしとした。〔太子は〕その上に登って、近臣たちに、

  今日ののち、勝利を伝え、再びここにこられるだろうか。

といった。この地には、巌石に馬蹄のようなひびがあり、人々は今にいたるも太子の馬〔蹄〕の跡であると伝えている。
 近肖古〔王〕は、在位三十年(三七五)に薨去したので、〔近仇首王が王〕位に即いた。
 二年(三七六)、王の舅の真高道を、内臣佐平に任命し、国政を委任した。