儒理尼師今

三国史記 巻第一

新羅本紀第一 始祖赫居世居西千 南解次次雄 儒理尼師今 脱解尼師今
       婆娑尼師今 祇摩尼師今 逸聖尼師今


第三代 儒理尼師今(在位二四―五七)

 冬十月、王が薨去し、馳陵の園内に葬った。


第四代 脱解尼師今(在位五七―八〇)

 脱解尼師今が即位した(分注。吐解ともいう)。〔脱解が王位に即いた〕とき、その年は六十二歳であった。〔脱解の〕姓は昔氏で、王妃は阿孝夫人である。脱解はむかし多婆那国(六五)で生れた。その国は倭国の東北一千里のところにある。むかしその国王が女国の王女を娶って妻とし、妊娠して七年たって、大卵を生んだ。王は〔次のように〕言った。


六五 多婆那国 日本の但馬国説や肥後国玉名説があるが、元来「遺」の龍城国のような海神(水神)の国であった。新羅人の地理的知識の発展にともなって、『三国志』魏書の西域の一小国名、あるいは西域の楽神の乾(含)達婆信仰に由来する国名に改めたものであろう。倭国の名も同様後世の挿入であろう。


三国遺事 王暦 第一 (新羅高句麗百済その他の各王の系譜)

新羅

第四脱解[吐解とも書く]尼叱今=昔氏である。父は完夏国の含達婆王[花夏国王とも書く]であり、母は積女国王の娘である。妃は南解王の娘、阿老夫人である。丁巳に即位して、二十三年間治めた。王が亡くなられると、未召疏井の丘中に水葬した。塑骨を東岳に奉安した。今の東岳大王である。


三国遺事 巻第一

紀異 第一

第四 脱解王

 (彼らが)もてなしを受けること七日たったときに、子供がこういった。「私はもの竜城国のもので〔正明国または完夏国ともいう。完夏は花夏とも書くが、竜城は倭の東北、一千里のところにある〕、私の国には二十八の竜王がおります。みな人の胎内から生れたものですが、五、六歳ごろに王位を継ぎ、万民を教え、性命を正しくします。八品(八つの官等)の姓骨(血統上の階級的等級)があるにはありますが、例外なくみな大位にのぼるのです。ときに父王の含達婆が、積女国の王女を迎えて妃にしましたが、長いこと子だねがなかったので、お祈りをしして子を願ったところ、七年後に大きい卵を一個産みました。そこで大王が群臣たちを集めて、『人が卵を生むということは、古今にその例がない。これは不吉の兆である』といわれ、それから箱を作って(その卵を)中に入れ、それに七宝と奴碑を船いっぱいに積んで海に浮かべてから、『勝手に因縁のある池にいって、国を立て家をおこしなさい』とお祈りしました。するとにわかに赤い竜が現れて船を護衛し、ここにやってきたのです」。