極東国際軍事裁判

極東国際軍事裁判(The International Military Tribunal for the Far East)とは、第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判のことである。東京裁判とも称される。

罪状は東條英機首相を始め、日本の指導者28名を「文明」の名によって世界征服の責任を裁くというもので、通常の戦争犯罪(B級犯罪)に加えて「平和に対する罪」(A級犯罪)でも起訴された。

東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。一方否定論では、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことから、"勝者の裁き"とも呼ばれる。

ドイツの戦犯を裁いたニュルンベルク法廷が連合国の管轄下にあったのとは違い、本裁判はダグラス・マッカーサー司令官が布告する極東国際軍事裁判所条例に基づいて行われた。

そもそもチャーター(極東国際軍事裁判所条例)は国際法に基づいておらず、この裁判は政治的権限によって行われたとの批判があり、「事後法」や連合国側の戦争犯罪が裁かれない「法の下の平等」がなされていない不備など批判の多い裁判ではあったが、平和に対する罪などの新しい概念を生み出し、戦争犯罪を裁く枠組みをつくりあげる第一歩となったという評価も一部にはある。また、戦前の日本は軍事の意志決定・責任の所在が不明瞭になっていたが、それに対し一応の区切りを与えたことになる。

1946年(昭和21年)1月19日に降伏文書およびポツダム宣言の第10項を受けて、極東国際軍事裁判所条例(極東国際軍事裁判所憲章)が定められ、1946年(昭和21年)4月26日の一部改正の後、市ヶ谷の旧陸軍士官学校の講堂にて裁判が行われた。昭和3年(1928年)から昭和20年(1945年)即ち満洲事変より太平洋戦争(大東亜戦争)迄の期間を被告等が全面的共同謀議を行ったなどとして起訴。起訴は1946年4月29日(4月29日は昭和天皇の誕生日)に行われ、27億円の裁判費用は日本政府が支出した。

連合国(戦勝国)からの判事としてはイギリス、イギリス領インド帝国アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、フィリピン、ソ連の11か国が参加した。なお、イギリス領インド帝国は、その名の通りイギリスの属領で事実上の植民地であった。

1946年5月3日より審理が開始し、当初55項目の訴因があげられたが最終的に10項目の訴因にまとめられた。なお判決に影響しなかった訴因のうち、「日本、イタリア、ドイツの3国による世界支配の共同謀議」「タイ王国への侵略戦争」の2つについては証拠不十分のため、残りの43項目については他の訴因に含まれるとされ除外された。

なお、連合国の中には昭和天皇の退位・訴追に対して積極的な国もあり、昭和天皇自身も「私が退位し全責任を取ることで収めてもらえないものだろうか」と言ったとされる(木戸幸一日記、8月29日付)。しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の最高指令官ダグラス・マッカーサーが当時の日本の統治において天皇の存在を必要と考えたため、天皇の退位・訴追は行われなかった。

海軍から改組した第二復員省では、裁判開廷の半年前から昭和天皇の訴追回避と量刑減刑を目的に旧軍令部のスタッフを中心に、秘密裏の裁判対策が行われ、総長だった永野修身以下の幹部たちと想定問答を制作している。また、BC級戦犯に関係する捕虜処刑等では軍中央への責任が天皇訴追につながりかねない為、現場司令官で責任をとどめる弁護方針の策定などが成された。 さらに、陸軍が戦争の首謀者である事にする方針に掲げられていた。1946年3月6日にはGHQとの事前折衝にあたっていた米内光政に、マッカーサーの意向として天皇訴追回避と、東條以下陸軍の責任を重く問う旨が伝えられたという。

また、敗戦時の首相である鈴木貫太郎を弁護側証人として出廷させる動きもあったが、天皇への訴追を恐れた周囲の反対で、立ち消えとなっている。 なお、裁判で証言を行った満州帝国皇帝の溥儀は、ソ連により連合国側の証人として出廷したが、自らの身を守るために偽証を行い、関東軍将校の吉岡安直に罪をなすりつけたことを後に自らの著作で明らかにしている。

1948年(昭和23年)11月4日、判決の言い渡しが始まり、11月12日に刑の宣告を含む判決の言い渡しが終了した。判決は英文1212ページにもなる膨大なもので、裁判長のウィリアム・F・ウエップは10分間に約7ページ半の速さで判決文を読み続けたという。

イギリス、アメリカ、中華民国ソ連、カナダ、ニュージーランドの6か国の判事による多数判決であった。裁判長であるオーストラリアの判事とフィリピンの判事は別個意見書を提出した上で、結論として判決に賛成した。

一方、オランダとフランス、イギリス領インド帝国の判事は少数意見書を提出した。オランダとフランスの判事の少数意見書は、判決に部分的に反対するものだった。イギリス領インド帝国の判事はこの裁判が国際法からみて問題があるという少数意見書を提出した。極東国際軍事裁判所条例ではこれら少数意見の内容を朗読すべきものと定められており、弁護側はこれを実行するように求めたが法廷で読み上げられることはなかった。

7人の絞首刑(死刑)判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了した。この日は当時皇太子だった継宮の誕生日(現天皇誕生日)であったので、見せしめのためとの意見もある。
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