ナチス・ドイツがポーランドへ侵攻

第二次世界大戦
ヨーロッパ
1939年9月1日にナチス・ドイツポーランドへの侵攻を始めるとイギリスはフランスと共に対独宣戦布告を行った。これが第二次世界大戦の勃発である。ネヴィル・チェンバレンは失脚し、代わって首相にチャーチルが就いた。国民政府は解体され、保守党、労働党による挙国一致内閣が形成された。
宣戦布告直後にイギリスは再び大陸に遠征軍を派遣し、フランス軍、ベルギー軍と共に共同でドイツ軍の西進を阻むことは確認されたもの、西部戦線は一向に戦端が開かれる気配が見られず、西からの援護を受けられないポーランドは結局見殺しにされる格好になった。結局西部戦線は翌年5月からドイツの主導で戦端が開かれることになった。オランダ、ベルギーから国境を突破したドイツ軍はあっという間に連合軍をイギリス海峡沿岸まで追い詰めた。海まで追い詰められたイギリス軍はダンケルクの戦いで部隊をイギリスに帰還させることに成功するが、パリに追い詰められたフランス軍はドイツに降伏するしか道が残されていなかった。こうして早々に大陸に味方がいなくなったイギリスは島国であるために早々とドイツ軍の侵入を許すことはないものの、ヨーロッパで唯一国枢軸国に対峙することを迫られた。
フランスに続いてイギリスへの上陸を狙うドイツと大陸への足がかりをなくしたイギリスとの戦いは、イギリスの地理的な条件と両軍の軍事ドクトリンを背景として大規模な空戦へと移行した。これがバトル・オブ・ブリテンである。当初はドイツ空軍のイギリスへの一方的な攻撃で、ロンドンをはじめ大都市は大きな打撃を蒙った。ドイツ軍の攻撃目標がイギリス海峡沿岸に近いところから内陸部へと拡大すると航続距離の短いドイツ軍機に対してイギリスにも反撃のチャンスが巡ってきた。8月末には初めてベルリンを空襲した。以降ドイツとイギリスの爆撃の応酬になったが、独ソ戦の開始により東にも戦線が開かれるとドイツは早々にイギリス上陸作戦を諦めざるを得なかった。