1916年10月9日〜1918年9月29日 内閣総理大臣 寺内正毅

中華民国中華帝国
1."洪憲帝"袁世凱(1915年、皇帝を宣言。在位1916年)


膠着した戦線で連合軍、中央同盟軍は互いにしばしば攻勢をかけ戦線の突破を企てたが、これらの企みはほぼ全てが多数の死傷者を出しただけで終わり、全く前線を前進させることは無かった。
イギリスが担当するイーペルでは大戦中イギリスとドイツでイープルの取り合いを数度繰り返した挙句、双方で50万人以上の死傷者を出した。しかしイープルの戦いは街を廃墟にしただけでイギリスにもドイツにも何ももたらすものが無かった。また、1916年のソンムの戦いではフランス軍と共同し、新兵器の戦車を投入するなどしてドイツ軍の前線に攻勢をかけ戦線突破を図ったが、攻勢を開始した7月1日だけでもイギリス軍は2万人近い戦死者を出した。
こうした前線の失敗は西部戦線だけでなくトルコでも起こった。1915年イギリス軍はANZACやカナダ軍と共同でトルコ上陸を目指したが作戦は見事な失敗に終わった。これがガリポリの戦いでイギリス軍を主力とする連合軍は4万人以上の戦死者と倍近い負傷者を生み出したがトルコを陥落させることはできなかった。
ガリポリやソンムでの戦いが多大なる犠牲を出しながらも何も得ることが無かったということが判明するとイギリス本国では政変となった。首相のアスキスはその座を引きずり下ろされ、代わって陸相デビッド・ロイド・ジョージがその後を襲った。この時の政変が戦後のクーポン選挙の遠因になっている。


戦中を通してイギリスに対する不満は増大し、ドイツの裏工作によって1916年に大規模な対英反乱とアイルランド独立の宣言が行われた。