琉球 尚育王 在位1835年 - 1847年

自由党・保守党の誕生
1830年代まで、ホィッグは中産階級の急進派、産業資本家を支持基盤としており自由貿易に対して積極的であった。一方のトーリーは農業や土地に基礎をおいた貴族や地主層に支持基盤を置いていて、保護貿易を志向していた。ホィッグもトーリーもこの時点までは、これらの支持基盤や政策的志向を一定度共有する議員グループ以上の存在にはならなかった。
1835年に行われた総選挙で、トーリーの有力議員であったロバート・ピールは自身の選挙区の有権者に対してタムワース・マニフェストを示した。これは政権公約という意味での最初のマニフェストであった。タムワース・マニフェストがこれ以上に重要なのは、このマニフェストが同年にトーリーの綱領として採択された事にある。これによってトーリーはそれまでの議員グループから脱却して近代的な政党である保守党へ脱皮した。
ピールは1841年に首相に就任し、1846年に穀物法を廃止した。続くホイッグの首相ジョン・ラッセルの下で、1849年には航海法が廃止され産業資本家が求める自由貿易が実現した。このようにピールは保守党議員でありながら自由貿易に積極的な姿勢を示した。ピールに同調する議員をピール派と呼ぶ。ピールが議員を辞すると、ピール派は次第に保守党から離れホイッグに合流した。このときまでにホイッグには同じくトーリー出身で自由主義外交を志向したカニング派も合流していてこれらの連合体として自由党が成立した。
この後、自由党と保守党、自由貿易派と保護貿易派の政治闘争を中心にしてイギリス議会政治が発展した。この間の自由党の最有力政治家はウィリアム・グラッドストンであり、保守党のそれはベンジャミン・ディズレーリであった。彼ら有力な政党政治家たちが自由・保守両党をリードして定期的な政権交代を繰り返しながら国政を指導し、民主主義の理念を充実させた。
この議会政治と平行して、選挙法の改正が1867年、1884年、1918年、1928年と行われた。1867年の選挙法改正では都市部労働者に対して選挙権が付与され、有権者の総数は200万人程度まで増えた。1884年の選挙法改正では地方の労働者に対して選挙権が与えられ、有権者は440万人まで増えた。