1189〜1190 太政大臣 九条兼実

リチャード1世(Richard I, 1157年9月8日 - 1199年4月6日)は、プランタジネット朝第2代のイングランド王(在位:1189年 - 1199年)。ヘンリー2世の三男(第4子)。母はアリエノール・ダキテーヌ。妃はベレンガリア・オブ・ナヴァール(ナバラ王サンチョ6世の娘)。

生涯の大部分を戦闘の中で過ごし、その勇猛さから獅子心王(Richard the Lionheart、フランス語ではCœur de Lion)と称され、中世ヨーロッパにおいて騎士の模範とたたえられたが、在位中イングランドに滞在することわずか6か月で、統治能力は未知数であった。


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第3回十字軍(1189年〜1192年)は、アイユーブ朝の始祖であり「イスラムの擁護者」と目されたサラーフッディーンサラディン)により征服された聖地エルサレムを、ヨーロッパのキリスト教諸国が奪還するために開始された。

第3回十字軍の経過
サラーフッディーンによるエルサレム征服

1169年にエジプトの実権を掌握したサラーフッディーンは、1171年には宰相を務めていたファーティマ朝を滅ぼして自らアイユーブ朝を開くと、その後の彼はパレスチナの地からキリスト教勢力を駆逐するという信念の実現に生涯をかけて尽力した。1174年にシリアを傘下に治め、十字軍王国の包囲体制を整えた。1187年7月4日、サラーフッディーンはハッティンの戦いで十字軍に勝利し、10月2日にエルサレムが降伏してエルサレム王国は滅亡した。この時、十字軍とは反対にキリスト教徒の虐殺は行われなかった。一方、キリスト教勢力の拠点は、アンティオキア、トリポリ、ティール、マルガットを残すのみとなった。

教皇グレゴリウス8世による聖地奪回の呼びかけ

この事態に対して教皇グレゴリウス8世は、聖地奪還を目的とする新たな十字軍の派遣をイングランドやフランスに呼びかけた。イングランド王ヘンリー2世とフランス王フィリップ2世(尊厳王)は領土問題を巡って戦争状態にあったが、要請を受けたことでこれを終結し、双方とも国内では「サラディン税」を課して十字軍編成のための資金とした。しかし両国間の戦争はすぐに再開し、さらにイングランド国内では、ヘンリーの息子リチャードがフィリップに臣従し父と敵対していた。

フリードリヒ1世の第一陣

神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)も教皇の呼びかけに答え、十字軍の第一陣として1189年に出発した。フリードリヒはその途上、サラーフッディーンと秘密協定を結んでいた東ローマ帝国の皇帝イサキオス2世アンゲロスの敵対的行為に直面した。このため十字軍は東ローマ領を急いで通過せざるを得なかった。その後、1189年5月18日にクルチ・アルスラーン2世が治めるルーム・セルジューク朝の首都イコニウムを占領した。しかし1190年6月10日フリードリヒがキリキアのサレフ川で溺死してしまった。彼らは数の上ではサラーフッディーンよりも多かったが、フリードリヒを失ったことから早くも解散してしまった。一部の者は向かった先のシリアで戦いに敗れた。

リチャード1世とフィリップ2世によるアッコン征服

1191年、イングランドリチャード1世獅子心王)とフィリップ2世は共に海路ではあるが、関係が悪化していたため別々にパレスチナに到着した。リチャードの船団はその途上で嵐にあい、何隻かがキプロス島まで流されたが、その時東ローマ帝国から離反していた島の統治者が漂着した財宝を略奪し、乗員らを身代金目当てで牢に入れたため、リチャードは戦って5月末までに島全体を占領した。そして一旦はテンプル騎士団に島の統治を委ねるが、翌年、旧知のエルサレム王国の前国王ギー・ド・リュジニャンにこの島を譲渡した。一方、フィリップはティールに到着して、エルサレム王国の王位継承を主張しギーと対立していたモンフェラート侯コンラード1世と同盟を結んだ。

1191年4月、フィリップらは先のフリードリヒの敗残兵を加えてアッコンの攻囲を開始し、6月にはリチャードの軍が包囲に加わった。アイユーブ朝軍は包囲を破ろうと試みたが撃退され、7月12日アッコンは陥落した。しかしその後、十字軍側の3人の司令官の間に内部抗争が起きた。ドイツ人たちの司令官であったオーストリア公レオポルト5世は、リチャードやフィリップと同列に扱われることを欲し自身の旗を掲げたが、リチャード側はこれを撤去したため、激怒したレオポルトは十字軍から離脱し帰路についた。一方フィリップは病気を理由に7月末に帰国し、リチャードは十字軍でただ一人残ったキリスト教国の君主として戦うはめになった。