ハロルド1世

ハロルド1世(Harold I、またはハロルド兎足王 Harold Harefoot, 1015年頃 - 1040年3月17日)は、イングランド王(在位:1035年または1037年 - 1040年)あだ名の「兎足王」はハロルドの足の速さと狩猟家としての技術を指している。

生涯
ハロルドの父クヌーズ1世はイングランドデンマークノルウェー、さらに「仮祝言した(Handfasting)」妻エルギフ・オブ・ノーサンプトン(Aelgifu of Northampton)を通してスウェーデン王国のいくつかの王だった。クヌーズを父親とすることには疑問の声もあるが、それはハロルドの王位に反対する者の宣伝だった可能性がある。
1035年11月12日のクヌートの死後、クヌーズとその妃エマ・オブ・ノーマンディーの子、ハロルドにとっては異母弟にあたるハーデクヌーズがデンマークイングランド両方の正統な王位継承者だった。しかしハーデクヌーズは、デンマーク王国ノルウェー王マグヌス1世とスウェーデン王アヌンド・ヤコブ(Anund Jacob of Sweden)の侵略を受けていたために、イングランド戴冠式に行くことができなかった。イングランドの有力者たちは、ハーデクヌーズ不在の難事のために、ハロルドを一時的に摂政に就任させるというアイディアを支持した[6]。ウェセックス伯ゴドウィン(Godwin)はそれに反対したが結局ハロルドが王冠をかぶった。
1036年にエマと先夫エゼルレッド2世 (イングランド王)の息子たちであるアルフレッド・アシリング(Alfred Aetheling)とエドワード(後のエドワード懺悔王)がハロルドを退けようとしたが、ハロルドはその試みから免れた。
1040年3月17日、ハロルドはオックスフォードで亡くなった[6]。ちょうどハーデクヌーズがデンマーク侵略軍を準備している最中のことだった。ハロルドの遺体はウェストミンスター寺院に埋葬された。同年6月、ハーデクヌーズが王冠を得た時、ハロルドの遺体は掘り出され、首を切られ、テムズ川と隣接する沼地に放り投げられた。ハロルドの支持者たちは後にハロルドの遺体を回収し、セント・クレメント・デーンズ(St. Clement Danes)というお誂えの名前の教会(Danesはデーン人という意味)に埋葬した。

王位の仮定
1037年、エマ・オブ・ノーマンディーはフランドルのブルッヘに亡命した。ハロルドは「至る所で王に選ばれた」。ハロルド本人はあまりはっきりしない。歴史家フランク・ステントン(Frank Stenton)は、ハロルドの統治期の一時期あるいは全期、母エルギフが「イングランドの真の統治者」だった可能性があると見ている。
ゴドウィンとの約束を守って、少なくとも北部はハロルドの側で、エマはハーデクヌーズのハスカールたちと一緒にウィンチェスターに住んでいた。ハロルドはすぐに「彼女から(クヌーズ王の)財産をすべて取り上げた」。イングランド王国は実質ハロルドのものだった。
だが、『Encomium Emmae(エマの賛辞)』によれば、カンタベリー大主教はハロルドを王位に就かせることを拒否したという。エルギフ・オブ・ノーサンプトンが貴族たちに賄賂を贈ることで息子の地位を守ろうとしたという証拠もある。

ルフレッドとエドワードの侵略
1036年、エマと先夫エゼルレッド2世の息子たち、兄エドワードと弟アルフレッド・アシリングが亡命先のノルマンディーから帰国した。『アングロサクソン年代記』によると、二人は護衛とともにウィンチェスターにいる母親エマを訪問する意図だというが、家族の再会以上の何かのためにこの旅を決行したのかも知れない。「雑音がハロルドを支持していた」時、アルフレッドはゴドウィンの命令に従ったが、ゴドウィンはその頃にははっきりとハロルドの側にいて、ハロルドに忠誠を誓う部下たちに捕らえられ、盲目にされた。その傷でアルフレッドはまもなく死に、護衛も同様の目に遭った。

所産
ハロルドにはエルフウィンという息子があり、長じて大陸で修道士になった。エルギフ・オブ・ノーサンプトンは跡形もなく消えてしまった。『アングロサクソン年代記』によると、ハロルドの統治は4年と16週で、クヌーズの死の2週後から統治が始まったという計算になる。