デンマークのカヌート大王

民族的なアイデンティティーの確立においてイングランドには大々的にゲルマン系のアングロサクソン人が大陸から侵攻してきたことに大きな特徴を有している。これらアングロサクソン人は、5世紀から9世紀にかけて七王国と呼ばれる国家群を建設した。アングロサクソン人の王国は9世紀の初めにこの中の一つであるウェセックス王国のアルフレッド大王によって政治的に統一された。この統一とほぼ同時にデーン人の侵攻が活発になった。1013年にはデンマークのカヌート大王(クヌート)によってイングランド北海帝国の領域に組み込まれ1042年まで支配された。この後一時的にアングロサクソンの王が復活するが1066年にフランスのノルマンディー公ギヨーム(即位してウィリアム1世)によって征服され、イングランドの支配層はノルマン系フランス貴族に交代した。その結果イングランドはフランス文化の影響を強く受けることになった。
ノルマン朝とその後を次いだプランタジネット朝の歴史的な経緯によって、フランスとイングランドの関係は非常に複雑なものになった。これを遠因とする百年戦争の過程においてイングランドは大陸の領土を喪失し、基本的にブリテン島に完結する王国に再編成された。対フランスという視点から見ればこの一連の出来事はイングランドという大きなまとまりでの自意識を持つようになった。これは後にイングランドの国民的アイデンティティーを成立させる一因になった。


スヴェン1世ハラルドソン(デンマーク語:Svend "Tveskæg"、ノルウェー語:Svein "Tjugeskjegg"、英語:Sweyn "Forkbeard"、 960年 - 1014年2月3日)は、“双叉髭王”(そうさひげおう)、“八字髭”(はちのじひげ)のあだ名をもつデーン人の王。デンマーク国王(在位985年 - 1014年)、ノルウェー国王(在位985年 - 995年、1000年 - 1014年)、イングランド国王(在位1013年 - 1014年)を兼ねた。
『ヘイムスクリングラ』によると、妻は、1人目はヴェンドの王ブリスラヴの娘、グンヒルド(en)。彼女の死後、スウェーデン王オーロフの母で、スコグルのトースティの娘のシグリーズ(Sigrid Storråda)を2人目の妻に迎えた。 なお、『クニートリンガ・サガ(英語版)』によればグンヒルドとの間に生まれたのがクヌーズ1世である。また『ヘイムスクリングラ』によれば、娘のギュザギューザ(とも。)はノルウェーのエイリーク・ハーコナルソンの妻になった。また、妹のスュリ(タイア、チューリとも)はブリスラヴ王の妻となった後、異教徒であった王を嫌って逃れ、オーラヴ・トリグヴァソンの3番目の妻になった。
スヴェン1世は父ハーラル1世“青歯王”の後を継ぎ、デンマークおよびノルウェーの王となった。しかしすぐにスウェーデンのエリク6世“勝利王”に敗れ、デンマークから追放された。エリク6世の死後スヴェン1世はデンマークへ戻った。
デンマークは980年代からイングランドを襲い、退去料としてデーンゲルドを徴収した。さらに994年にはノルウェーのオーラヴ・トリグヴァソンと共にロンドンやケントを襲撃した。しかし999年または1000年、スヴェンはスウェーデンのオーロフ、ノルウェーやヴェンドの軍と共に、スヴォルドの海戦においてオーラヴ王を倒している。1002年に、エゼルレッド2世“無思慮王”がイングランド在住のデーン人を虐殺したため、翌年スヴェンは北欧各国より兵を集めてイングランドを攻撃し始める[5]。1013年にはエゼルレッド無思慮王を破ってイングランド王位についた。
1014年、スヴェン1世は急死。デンマーク王位はハーラル2世が、ノルウェー王位はオーラヴ2世“聖王”が継いだ。イングランドはエゼルレッド2世が復位したが、クヌーズ1世がそれを破って王位を継いだ。クヌーズ1世はのちにデンマーク王位とノルウェー王位も手に入れ、巨大な北海帝国を築き上げることになる。