権中納言従二位左兵衛督長良

大鏡 第二巻 一 権中納言従二位左兵衛督長良

 権中納言従二位左兵衛督長良公――この中納言は、冬嗣公の長男で、御母は白川の大臣〔良房公〕や西三条の大臣〔良相公〕と同じです。公卿として十三年の間おいでになりました。後に陽成天皇の御代になって、天皇の御祖父でいらっしゃるという理由で、ご即位後まもなくの元慶元年に、左大臣正一位を追贈され、ついで三年に、太政大臣を贈られました。世に枇杷の大臣と申しあげます。この殿には男のお子さまが六人いらっしゃいましたが、その中でとくに基経の大臣がすぐれていらっしゃいます。


三国史記 巻第一〇 新羅本紀第一〇

第四〇代 哀荘王(在位八〇〇―八〇九)

 三年(八〇二)春正月、王は親しく神宮を祭った。
 夏四月、阿食の金宙碧の娘を後宮に迎えいれた。
 秋七月、〔王都に〕地震があった。
 八月、加耶山の海印寺を創建した。
 挿良州が赤烏を進上した。


エグバート(Egbert、古英語:Ecgberht、またはEcgbryht、775年頃 - 839年)は、イングランド七王国の一つ、サクソン人のウェセックスの王(在位:802年 - 839年)。イングランドを初めて統一した王として知られる。
ケント王国の王族で、ウェセックス王セルディックの末裔と称し、王位を要求するが失敗した。イングランド七王国のひとつアングル人のマーシアのオファ王(在位:757年 - 796年)に追放されて、フランク王国カール大帝の庇護を受けた。オファ王の死後、802年に帰国してウェセックスの王位に就き、825年、エランダンの戦いでマーシアを破ってイングランドにおける覇権を手にし、イングランドを統一した。