第三一代 義慈王(在位六四一―六六〇)

三国史記 巻第七

新羅本紀第七 文武王 下

第三〇代 文武王(在位六六一―六八一)

 十六年(六七六)春二月、高僧の義相が王の命をうけて、浮石寺(慶北栄州郡浮石面)を創建した。


三国史記 巻第二十八

百済本紀第六 義慈王

第三一代 義慈王(在位六四一―六六〇)

 儀鳳年間(六七六―六七九)に、〔扶余〕隆を、熊津都督帯方郡主とし、帰国して、旧民を安じさせようとした。そこで、安東都護府を新城(中国遼寧省撫順市北関山城)に移して統治した。このとき、新羅が強盛であったので、〔扶余〕隆は、旧国に無理に入らず、高句麗にたよって仮り住いをして〔いたが、そこで〕死去した。〔則天〕武后はまたその孫の敬に〔百済〕王を襲名させたが、その〔旧〕地は、すでに、新羅渤海・抹褐のために分轄統治され、ついにその国系は絶えた。
〔編者金富軾はこのことについて次のような〕意見をもっている。



1 温祚王
2 多婁王
3 己婁王
4 蓋婁王
5 肖古王
6 仇首王
7 沙伴王
8 古尓王
9 責稽王
10 汾西王
11 比流王
12 契王
13 近肖古王
14 近仇首王
15 枕流王
16 辰斯王
17 阿莘王
18 腆支王
19 久尓辛王
20 毗有王
21 蓋鹵王
22 文周王
23 三斤王
24 東城王
25 武寧王
26 聖王
27 威徳王
28 恵王
29 法王
30 武王
31 義慈王


チェントウィネ(Centwine、在位676年 - 685年/686年)はウェセックス王家に連なる人物で西サクソンを治めた人物。後世ウェセックス王として列せられた人物である。しかしながら、この時代彼がウェセックスを治めた単独の王であったとは考えられていない。
アングロサクソン年代記の記述ではチェントウィネは676年に先王エシュウィネから継いで王となったとされている。しかしながら同時代の歴史家ベーダ・ヴェネラビリスはチェンワルフの死後、副王たちの分裂状態が10年続いたと記しており、先王エシュウィネとともにチェントウィネも王としていない。これは彼がチェントウィネたちを同時代の王の祖父であるイネを擁立した支持者とみなしていた姿勢が伺える。もしベーダの表記が正しければ、分裂状態にあった西サクソンは彼の時代に再統合された事になる。
アングロサクソン年代記の682年に「チェントウィネはブリトン人を海に追いやった」と書かれているが、これが彼に関する唯一の表記でもある。チェントウィネから数世代後の人物であるシャーボーンの司教アルドヘルムが記した「Carmina Ecclesiastica」によれば、チェントウィネは3回の大きな合戦に勝利を収めたと書かれている。加えて彼はゲルマンの異教を信仰していたが、キリスト教に改宗し、教会の保護者となったとされる 。年代記には彼の出自は王キュネイルスの子であり、チェンワルフとクウィチェルムと兄弟であったと書かれているが、アルドヘルムは彼の出自には何も語ってはいない。
エディウス・ステファヌスの「ウィルフリド伝」ではチェントウィネは、ノーサンブリア王エッジフリスの妻であったイウミンブルフ(Iuminburh)の姉妹を妻としたと書き残している。正確な妻の名は残されてはいない。彼女がウィシングトンの尼修道院長であったドゥナ(Dunna)ではないかと思われていたが、現在では否定されている。この妻と彼の間には娘ブッガ(Bugga、エドブルガ Edburgaとも)がおり、またアルドヘルムが詩文を捧げた相手でもあったが、恐らく尼修道院長を務めたものと考えられている。
晩年チェントウィネは退位し、修道士となったと伝えられている。アルデヘルムによれば、彼は「富と国を治める事を退け、キリストの御名のもとで自らの王国を後にした」としている"。彼が没すると王位はキャドワラが継いだ。彼の没年は分かっていない。