大海人皇子吉野入り

日本書紀 巻第二十八

  天武天皇 天亭中原沖真人天皇 上

大海人皇子吉野入り

 天亭中原沖真人天皇天智天皇の同母弟である。幼時には大海人皇子といった。生来すぐれた素質をもたれた立派なお方であった。成人してからは雄々しく、武徳にすぐれていた。天文や占星の術をよくされた。天智天皇の女の菟野皇女を迎えて正妃とされた。天智天皇の元年に、立って東宮(皇太子)となられた。
 四年冬十月十七日、天皇は病臥されて重態であった。蘇我臣安麻呂を遣わして、東宮を呼び寄せられ、寝所に引き入れられた。安麻呂は元から東宮に好かれていた。ひそかに東宮を顧みて、「よく注意してお答えください」といった。東宮は隠された謀があるかも知れないと疑って、用心された。天皇東宮皇位を譲りたいといわれた。そこで辞退して、「私は不幸にして、元から多病で、とても国家を保つことはできません。願わくば陛下は、皇后に天下を託して下さい。そして大友皇子を立てて、皇太子として下さい。私は今日にも出家して、陛下のため仏事を修行することを望みます」といわれた。天皇はそれを許された。即日出家して法服に替えられた。それで自家の武器をことごとく公に納められた。
 十九日、吉野宮に入られることになった。左大臣蘇我赤兄臣・右大臣中臣金連および大納言蘇賀果安臣らがお見送りし、宇治まで行き、そこから引返した。ある人が言った。「虎に翼をつけて野に放つようなものだ」と。この夕方、嶋宮(明日香村島の庄の離宮)へお着きになった。二十日、吉野へおつきになった。このとき多くの舎人を集めて、「自分はこれから仏道に入り修行をする。自分といっしょに修道をしようと思う者は留まるがよい。朝廷に仕えて名を成そうと思う者は、引返して役所へ戻るように」といわれた。しかし帰る者はなかった。さらに舎人を集めて、前の如く告げられると、舎人の半分は留まり半分は退出した。


三国史記 巻第七

新羅本紀第七 文武王 下

第三〇代 文武王(在位六六一―六八一)

 十二年(六七二)春正月、王は将軍を派遣し、百済の古省城(四比城か)を攻撃・落城させた。
 二月、百済の加林城を攻めたが、勝てなかった。


萬葉集 巻第一

明日香清御原宮の天皇の代 天亭中原沖真人天皇、盆を天武天皇といふ

    十市皇女伊勢神宮に参ゐ赴く時に、波多の横山の巌を見て、吹欠刀自が作る歌

22 河上の ゆつ岩群に 草生さず 常にもがもな 常娘子にて

     吹欠刀自は未詳なり。ただし、紀に曰く、「天皇の四年乙亥の春二月、乙亥の朔の丁亥に、十市皇女・阿閉皇女、伊勢神宮に参ゐ赴きます」といふ。

    麻績王、伊勢国の伊良虞の島に流されたる時に、人の哀傷して作る歌

23 打麻を 麻績王 海人なれや 伊良虞の島の 玉藻刈ります

   打麻乎 麻続王 白 水郎 有哉 射等籠 荷 四間乃 珠藻 苅麻須

   どう生きなさる 機織王 賤しい 漁夫 ……なのだね 生き抜こうと ……の 島の ほんだわら(海藻) 刈りなさる


    麻績王、これを聞き感傷して和ふる歌

24 うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ 伊良虞の島の 玉藻刈り食む

   空蝉之 命乎 惜美 浪弥 所湿 伊良虞 能嶋之 玉藻 苅食

   どう生きながらえむ 命を 惜しみ 乱が 起きて かくの如くに 渡り行く 海藻(ほんだわら) 刈りながら


     右、日本紀を案ふるに、曰く、「天皇の四年乙亥の夏四月、戊戌の朔の乙卯に、三位麻績王罪ありて因幡に流す。一子は伊豆の島に流し、一子は血鹿の島に流す」といふ。ここに伊勢国の伊良虞の島に配すと云ふは、けだし後の人歌辞に縁りて誤り記せるか。

    天皇の御製歌

25 み吉野の 耳我の嶺に 時なくそ 雪は降りける 間なくそ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の 間なきがごとく 隈も落ちず 思ひつつぞ来し その山道を

    或本の歌

26 み吉野の 耳我の山に 時じくそ 雪は降るといふ 間なくそ 雨は降るといふ その雪の 時じきがごと その雨の 間なきがごとく 隈も落ちず 思ひつつぞ来し その山道を

     右、句々相換れり。これに因りて重ねて載せたり。

     天皇、吉野宮に幸せる時の御製歌

27 よき人の よしとよく見て よしと言ひし 吉野よく見よ よき人よく見

     紀に曰く、「八年己卯の五月、庚辰の朔の甲申に、吉野宮に幸す」といふ。