第三一代 義慈王(在位六四一―六六〇)

三国史記 巻第二十八

百済本紀第六 義慈王

第三一代 義慈王(在位六四一―六六〇)

 二十年(六六〇)春二月、王都の井戸水が、血の色になった。


日本書紀 巻第二十六 斉明天皇

 三月、阿倍臣を遣わして船軍二百隻を率い、粛慎国を討たせた。阿倍臣は陸奥蝦夷を自分の船にのせ、大河のほとりまできた。すると渡島の蝦夷が一千余、海のほとりにむらがり、河に面して屯営していた。営の中の二人がにわかに呼びかけて、「粛慎の船軍が多数おしかけて、我らを殺そうとしていますので、どうか河を渡ってお仕えすることを、お許し下さい」という。阿倍臣は船をやって二人の蝦夷を召し寄せ、賊の隠れ場所と船の数を尋ねた。二人の蝦夷は隠れ場所を指さして、「船は二十隻あまりです」という。使いをやって呼んだ。しかしやってこなかった。そこで阿倍臣は、綵絹・武器・鉄などを海辺に積んで、見せびらかし欲しがらせた。粛慎は船軍を連ねて、鳥の羽を木に掛け、それを上げて旗としていた。舟の棹を揃えあやつって近づき、浅いところにとまった。一隻の舟の中から、二人の老翁が出てきて、積み上げられた綵絹などの品物をよくよく調べた。それから単杉に着替えて、それぞれ布一端を提げて、船に乗って引上げた。しばらくすると老翁がまた来て、着替えた衣を脱ぎ、持ってきた布を置いて、船に乗って帰った。阿倍臣は多くの船を出して、粛慎人を呼ばせたが、聞き入れることなく、幣賂弁島に帰った。しばらくしてから和を乞うてきたが成立せず、自ら築いた柵にこもって戦った。能登臣馬身竜は、敵のために殺された。戦いが充分熟さないうちに、敵方は自分らの妻子を殺して敗走した。
 夏五月八日、高麗の使人乙相賀取文らが、難波の館についた。
 この月、役人たちは勅をうけたまわって、百の高座・百の納袈裟を作って、仁王般波羅密教の法会を設けた。また皇太子(中大兄皇子)が初めて漏刻(水時計)をつくり、人民に時を知らせるようにされた。また阿倍引田臣は、蝦夷五十余人をたてまつった。
 また石上池の辺りに須弥山を造った。高さは寺院の塔ほどあった。粛慎四十七人に饗応をされた。また国中の人民たちが、故なく武器を持ち道を行き来した。――故老は百済国が滅亡する兆しかといった。
 秋七月十六日、高麗の使人乙相賀取文らは帰途についた。また都貨羅人乾豆波斯達阿は、本国に帰ろうと思い、送使をお願いしたいと請い、「のち再び日本に来てお仕えしたいと思います。そのしるしに妻を残して参ります」といった。そして十人余りの者と、西海の帰途についた。
 ――高麗の法師道顕の日本世記に、七月云々とある。新羅の春秋智(太宗武烈王)は、唐の大将軍蘇定方の手を借りて、百済を挟み撃ちにして滅ぼした。他の説では百済は自滅したのであると。王の大夫人が無道で、ほしいままに国権を私し、立派な人たちを罰し殺したので禍を招いた。気をつけねばならぬ、と。その本の註に、新羅の春秋智は、高句麗の内臣蓋金に助力の願いをいれられず、さらに唐に使いを送り、新羅の服を捨てて唐服を着、天子に媚びて、隣国を併合する意図を構えたとある。伊吉連博徳の書に、この年八月、百済がすでに平らげられた後、九月十二日に日本の客人を本国に放免した。十九日、長安を発った。十月十六日、洛陽に帰り、はじめて阿利麻ら五人に会うことが出来た。十一月一日、将軍蘇定方らのために捕らえられた百済王以下太子隆ら、諸王子十三人・大佐平沙宅千福・国弁成以下三十七人、合せて五十人ばかりの人を、朝にたてまつるため、にわかにひきつれて天子のところに赴いた。天子は恵みを垂れて、楼上から目の前で俘虜たちを釈放された。十九日われわれの労をねぎらわれ、二十四日洛陽を発ったとある。

 九月五日、百済は達率沙弥覚従らを遣わして奏上させ、「今年の七月、新羅は力をたのんで勢いをほこり、隣と親しまず、唐人を引き入れて、百済を転覆させました。君臣みな虜とされほとんど残る者もありません」といった。
 ――ある本によると、今年七月十日、唐の蘇定方が船軍を率いて、尾資の津(錦江河口か)に陣どった。新羅の王春秋智は兵馬を率いて、怒受利山に陣した。百済を挟み撃ちにして戦うこと三日、わが王城は陥落、王は難を避けたが、ついに再び破れた。怒受利山は百済の東の境であるとする。

 西部恩率鬼室福信は激しく発憤して、任射岐山に陣どった。――ある本に北任叙利山とある。
 中部達率余自進は、久麻怒利城に拠り、それぞれ一所を構えて散らばっていた兵を誘い集めた。――ある本では都々岐留山とある。
 武器は先の戦いの時に尽きてしまったので、培(手に握る棒)で戦った。新羅の軍を破り、百済はその武器を奪った。すでに百済の兵は戻って鋭く戦い、唐軍はあえて入ることが出来なかった。福信らは同国人をよび集めて、共に王城を守った。国人は尊んで、「佐平福信・佐平自進」とあがめた。「福信は神武の権を起して、一度滅んだ国さえも興した」といった。
 冬十月、百済の佐平鬼室福信は、佐平貴智らを遣わして、唐の俘虜百余人をたてまつった。今、美濃国不破郡・方県郡(稲葉郡本巣郡)の唐人たちである。また援軍を乞い、同時に王子余豊璋を頂きたいと言い、「唐人はわれらの身中の虫(新羅)を率いて来り、わが辺境を犯し、わが国を覆し、わが君臣を俘にしてしまいました」と告げた。
 ――百済の王義慈、その妻恩古、その子佐平千福・国弁成・孫登ら、すべて五十人余、秋七月十三日、蘇将軍のために捕えられ唐に送られた。先に人民が故無くして武器を持ち歩いたのは、このことの前兆だったのだろうか。

 十二月二十四日、天皇難波宮においでになった。

 この年、百済のために新羅を討とうと思われ、駿河国に勅して船を造らせられた。