第36代 孝徳天皇 645年6月14日〜654年10月10日

日本書紀 巻第二十四

  皇極天皇 天豊財重日足姫天皇

 十四日、皇極帝は位を軽皇子に譲られ、中大兄を立てて皇太子とされた。



日本書紀 巻第二十五

  孝徳天皇 天万豊日天皇

皇位の互譲

 天万豊日天皇皇極天皇の同母弟である。仏法を尊んで神々の祭りを軽んじられた。――生国魂社(大阪市天王寺区生玉町)の木を切られたことなどがこれである。
 人となりは情け深く、学者を好まれた。貴賤にかかわりなく、しきりに恵みふかい勅を下されることが多かった。皇極天皇の四年六月十四日、皇極天皇が位を中大兄に伝えようと思われ、詔して云々といわれた。中大兄は退出して中臣鎌子に相談された。中臣鎌子連は意見をのべて、「古人大兄は殿下の兄上です。軽皇子孝徳天皇)は殿下の叔父上です。古人大兄がおいでになる今、殿下が皇位を継がれたら、人の弟として兄に従うという道にそむくでしょう。しばらく叔父上を立てられて、人々の望みに叶うなら良いではありませんか」といった。中大兄は深くその意見をほめられて、ひそかに天皇に奏上された。皇極天皇は神器を軽皇子に授けて位を譲られ、「ああ、なんじ軽皇子よ」云々といわれた。軽皇子はいくども固辞され、ますます古人大兄に譲って、「大兄命は舒明天皇の御子です。そしてまた年長です。この二つの理由で天位におつきになるべきです」といわれた。すると古人大兄は座を去り、退いて手を胸の前で重ねて、「天皇の仰せのままに従いましょう。どうして無理をして私に譲られることがありましょうか。私は出家して吉野に入ります。仏道の修行につとめ、天皇の幸せをお祈りします」といわれお断りになった。言い終わって腰の太刀を解いて地に投げ出された。また舎人らに命じて、みな太刀をぬがされた。そして法興寺の仏殿と塔との間においでになり、みずからひげや髪を剃って袈裟を召された。このため軽皇子も辞退することができなくなり、壇に上って即位された。そのとき大伴長徳連馬飼は、金の革(矢入れ)をつけて壇の右に立った。犬上健部君は、金の革をつけて壇の左に立った。百官の臣・連・国造・数多の伴緒が連なり並んで拝礼した。

新政権の発足

 この日、号を皇極天皇に奉って皇祖母尊と呼んだ。中大兄を皇太子とした。阿倍内麻呂臣を左大臣とし、蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣とした。大錦の冠位を中臣鎌子連に授けて内臣とした。封(食封)も若干増加した、云々と。
 中臣鎌子連は至忠の誠を抱き、宰臣として諸官の上にあった。その計画は人々によく従われ、物事の処置はきちんときまった。沙門文法師・高向史玄理を国博士(国政の顧問)とした。
 十五日、金策(金泥で書いた冊書)を阿倍倉梯麻呂大臣と、蘇我山田石川麻呂大臣とに賜わった。十九日、天皇・皇祖母尊・皇太子は、大槻の木の下に群臣を召し集めて盟約をさせられた。――天神地祇に告げて、「天は覆い地は載す。その変わらないように帝道はただ一つである。それなのに末世道おとろえ君臣の秩序も失われてしまった。さいわい天はわが手をお借りになり暴逆の者を誅滅した。今、共に心の誠をあらわしてお誓いします。今から後、君に二つの政無く、臣下は朝に二心を抱かない。もしこの盟に背いたなら、天変地異おこり鬼や人がこれをこらすでしょう。それは日月のようにはっきりしたことです」と誓った。


常陸国風土記

〔一〕総記 常陸の国の司の報告書。古老が口から口へ伝えている古い伝承を申す事。
 国や郡のむかしの事を問うたところ、古老が答えて言ったことは、以下のとおりである。ずっとむかしは、相模の国足柄の山の坂から東にあるそれぞれの県は、総称してあずまの国と言っていた。この当時、常陸とは言わなかった。ただ、新治・筑波・茨城・那賀・久慈・多珂の国と称して、それぞれ造・別を遣わして治めさせていた。その後、難波の長柄の豊前の大宮で天下をお治めになった天皇孝徳天皇)のみ世になって、高向の臣・中臣の幡織田の連等を遣わして、足柄の坂から東にある国を統治せしめられた。その時に、あずまの国を分けて八つの国とし、常陸の国は、その一つとして設置なされた。