第二六代 真平王(在位五七九―六三二)

三国史記 巻第四 新羅本紀第四

第二六代 真平王(在位五七九―六三二)

 二十四年(六〇二)、使者として大奈麻の上軍を派遣し、隋にいって特産物を進貢させた。


三国史記 巻第二十七

百済本紀第五 武王

第三〇代 武王(在位六〇〇―六四一)

 武王は緯を章といい、法王の子である。〔武王は〕容姿がすぐれていて、志や気力も衆にすぐれていた。法王が即位した翌年に薨去したので、子〔の武王〕が〔王〕位を嗣いだ。
 三年(六〇二)秋八月、王は出兵して、新羅の阿莫山城(全北南原郡雲峰面)(分注。母山城ともいう)を包囲した。〔新〕羅の真平〔王〕が、精鋭な数千の騎兵隊を派遣し防戦させたので、わが軍は勝利をえられず、帰国した。
 新羅は小施・畏石・泉山・甕岑の四城を築き、わが国の国境地帯を侵しせまったので、王は怒って、佐平の解讐に、四万の歩兵と騎兵とを率いさせて、この四城を進攻させた。
 新羅の将軍乾品・武殷が大軍を率いて反撃したので、解讐は勝利をえられず、軍隊を泉山の西の大沢の中まで退却させ、ここで軍隊を伏せて、〔新羅軍〕を待った。武殷が勝ちに乗じて、一千人の甲兵を率いて、〔この〕大沢まで追ってきた。〔わが軍の〕伏兵が突然あらわれ、〔新羅軍を〕激しく攻撃した。武殷は馬から落ち、士卒たちも驚きあわて、どうしてよいかわからなかった。〔そのとき、〕武殷の子の貴山が大声で、

  私はまえに師から〔次のような〕教えをうけた。「士たるものは戦闘で退いてはいけない」と。どうして、みだりに逃げ退いて、師の教えを捨ててよいだろうか。

といい、馬を父にわたして、小将の箒項とともに伐をふるって力闘し、戦死した。他の〔新羅の〕兵士たちがこれを見て、ますます奮戦したので、わが軍は敗北し、解讐はようやく逃れ、単身で帰った。