武烈天皇の暴虐

日本書紀 巻第十六

武烈天皇 小泊瀬稚焦遼天皇

 二年秋九月、妊婦の腹を割いてその胎児を見られた。


三国史記 巻第三 新羅本紀第三

第二一代 招知麻立干(在位四七九―五〇〇)

 二十二年(五〇〇)春三月、倭人が長峯鎮を攻めおとした。
 夏四月、暴風が木を吹き倒した。


三国史記 巻第二十六 百済本紀第四

第二四代 東城王(在位四七九―五〇一)

 二十二年(五〇〇)春、〔王は〕臨流閣を宮殿の東に建立したが、〔その〕高さが五丈〔もあった〕。また池を掘り、珍奇な鳥を飼った。諫臣が意見書を奏上しても、返事をせず、〔王は〕また諫言をいう者を恐れて、宮殿の門を閉ざした。

〔編者金富賦はこのことについて、次のような〕意見をもっている。

  良い薬は口に苦いが、病気にきき、忠告の言葉は耳に逆らうが、行いに利する〔ものである〕。そこでむかしの明君は私心を棄てて政務をとり、顔色をやわらげて諫言を受けいれた。それでもなお、人々が〔諫言を〕言わないのを心配して、敢諫の鼓を懸け、誹謗の木を立て、〔その努力を〕止めなかった。今、牟大王(東城王)は諫争の書が奏上されても反省せず、また門を閉ざして〔諫言を〕拒んだ。荘子が「過を見ても改めず、諫言を聞いてもいよいよ甚だしくなるのを狼(ねじけ心)という」といった。これこそ牟大王のことをいったものであろう。


アルバ王国
アラパ王国(現代ゲール語表記:Alba、古ゲール語表記:Albu)は、6世紀ごろピクト人によって成立したといわれる、スコットランド王国成立の母体となった政権である。スコットランドゲール語では現在でもAlbaがスコットランドを意味している。ケネス・マカルピンによってダルリアダ王国と合併して成立したと伝えられる。
ダルリアダ国王ケネス・マカルピンによって征服されたという伝承があるが、これは定かでなく、婚姻によって統合されたとする説、アラパ王国がダルリアダ王国を征服して統一されたとする説などがあり、統一された見解は未だみられない。いずれにせよ両国は合併し、東岸地域のスクーンに首都がおかれた。
11世紀初頭、ダンカン1世の時代に南のストラスクライド王国を組み込み、北部を除くスコットランド全域を影響下においた。このころからアラパはスコーシア王国、やがてスコットランド王国と呼ばれるようになった。
北方のオークニー諸島、ケイスネス、サザランドは依然ヴァイキング系ノース人の勢力に支配されており、これをスコットランド王家が包含するのは15世紀のことになる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%90%E7%8E%8B%E5%9B%BD


ダルリアダ王国
500年ごろ、ファーガス・モー・マク・エルクが二人の弟を連れてキンタイア半島に上陸。アッド川のほとりのダナッドにダルリアダ王朝を樹立し、自らファーガス2世として初代国王についた。
ダルリアダ王国は、先住民族のピクト人のアルバ王国と激しい抗争を繰り返した。しかし、5世紀ごろよりスコットランドに入ってきたキリスト教の影響もあって、スコット人とピクト人は徐々に融和していった。伝承によれば846年、ダルリアダ王ケネス1世アルバ王国との戦いに圧勝。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%80%E7%8E%8B%E5%9B%BD