于老

三国史記巻第一 新羅本紀第一
第五代 婆娑尼師今(在位八〇―一一二)
 婆娑尼師今(はさにしきん)が即位した。
八六 婆娑尼師今 『日本書紀』巻九神功皇后摂政前紀に、新羅王波沙寐錦の名がみえており、婆娑尼師今と類似した王名が、干支ニ運遅れて記載されている。ただし、両者を結ぶ直接の史料はみあたらない。

三国史記巻第二 新羅本紀第二
第一二代 沾解尼師今(在位二四七―二六一)
 三年(二四九)夏四月、倭人が舒弗邯の于老を殺した(四三)。
四三 于老伝承は列伝五昔于老伝に詳しくみえる。本紀には説話として主要な部分の倭王を貶す話・于老の処刑・その後の報復などが省略されている。『日本書紀』巻九神功皇后前紀後部の分注記事はこの報復記事と関連している。

三国史記巻第三 新羅本紀第三
第一八代 実聖尼師今(在位四〇二―四一七)
 元年(四〇二)三月、倭国と国交を結び、奈勿王の王子未斯欣を人質とした(一七)。
第一九代 訥祇麻立干(在位四一七―四五八)
 二年(四一八)
 秋、王弟の未斯欣が倭国から逃げ帰って来た(二五)。
一七 未斯欣は美海・未吐貴・未叱喜(以上「遺」巻一奈勿王条)・微叱許智(『日本書紀』神功前紀十月条・同五年三月条)など多様に記述され、この伝承が広く流布したことが知られる。この記事は、新羅大和朝廷に服属したことを実証するものとみられてきたが、近年、倭国大和朝廷とみない説や、伝承史料の文献による伝播説などが出されている。
二五 王弟卜好が高句麗から、同未斯欣が倭国から帰国した説話は、列伝五朴堤上伝・「遺」巻一奈勿王金堤上条・『日本書紀』神功紀五年条にある。「遺」では宝海も美海(未斯欣)も帰国したという。

三国史記 列伝第五 昔于老
 昔于老(せきうろう)は奈解尼師今(新羅第一〇代の王。在位一九六―二三〇)の子である(分注。あるいは角干水老の子ともいう)。
 沾解王(第一二代。在位二四七―二六一)
七年(二五三)癸酉、倭国の使臣葛那古(かつなこ)が〔客〕館に居る〔時〕、于老が接待した。〔于老は〕客に戯れて、
  早晩、そなたの国の王を塩奴(潮汲み人夫)にし、王妃を炊事婦にしよう。
と言った。倭王はこの言を聞いて怒り、将軍于道朱君を遣わして、わが国を討った。大王は出て柚村に住んでいたが、于老は、
  この度の患いは私が言葉を謹まなかったことが原因です。私がその〔折衝に〕当たりましょう。
と言って、倭軍〔の陣営に〕行き、
  前日の言は戯れに言ったまでのことです。軍を興してこのようにまでなるとは、思ってもみませんでした。
と言ったが、倭人は答えず、彼を捕えた。〔そして〕柴を積んで〔于老を〕その上に置き、焼き殺して去って行った(二五)。于老の子供は幼弱で歩くことができなかったため、ある人が抱いて馬に乗せて帰った。〔この子が〕のちに訖解尼師今(第一六代。在位三一〇―三五六)となった(二六)。未鄒王(第一三代。在位二六二―二八四)の時、倭国の大臣が来訪した(二七)ので、于老の妻は、倭の使臣を私的に饗宴したいと国王に申し出た。その使臣が泥酔すると、壮士に〔命じて彼を庭にひきずり下させて焼き〔殺し〕、以前の怨みをはらした。倭人は怒って金城を攻撃してきたが、勝てずに引き返した。
二五 この列伝では沾解尼師今七年(二五三)のこととなっているが、新羅本紀二では倭人による于老の殺害は沾解尼師今三年(二四九)四月になっている。
二六 本書Ⅰ新羅本紀二訖解尼師今前記によれば、訖解王の母は助賁王(在位二三〇―二四七)の娘命元夫人である。
二七 新羅本紀二味鄒尼師今条には、これに該当する記事はない。



日本書紀 巻第九 神功皇后 気長足姫尊
 (仲哀)九年(二〇〇/三二〇)
 冬十月三日、鰐浦から出発された。
新羅の王の波沙寝錦(はさむきん)(寝錦は王の意)は、微叱己知波珍干岐(みしこちはとりかんき)を人質とし、金・銀・彩色・綾・羅・縑絹を沢山の船にのせて、軍船に従わせた。
新羅王宇留助富利智干(うるそほりちか)は、お出迎えして頭を地につけ、「手前は今後、日本国においでになる神の御子に、内官家として、絶えることなく朝貢いたします」と申し上げた。
 また一説によると、新羅王をとりこにして海辺に行き、膝の骨を抜いて、石の上に腹ばわせた。その後、斬って砂の中に埋めた。一人の男を残して、新羅における日本の使者として帰還された。その後新羅王の妻が、夫の屍を埋めた地を知らないので、男を誘惑するつもりでいった。「お前が王の屍を埋めたところを知らせたら、厚く報いてやろう。また自分はお前の妻となろう」と。男は嘘を信用して屍を埋めたところを告げた。王の妻と国人とは謀って男を殺した。さらに王の屍を取り出してよそに葬った。そのとき男の屍をとって、王の墓の土の底に埋め、王の棺の下にして、「尊いものと卑しいものとの順番は、このようなのだ」といった。
 天皇はこれを聞いてまた怒られ、大兵を送って新羅を亡ぼそうとされた。軍船は海に満ちて新羅に至った。このとき新羅の国人は大いに怖れ、皆で謀って王の妻を殺して罪を謝した。
 五年(二〇五/三二五)春三月七日、新羅王が汗礼斯伐・毛麻利叱智・富羅母智らを遣わして朝貢した。そして王は先の人質、微叱許智伐旱をとり返そうという気があった。それで許智伐旱に嘘を言わせるようにした。「使者の汗礼斯伐・毛麻利叱智らが私に告げて、『わが王は私が長らく帰らないので、妻子を没収して官奴としてしまった』といいます。どうか本国に還って、嘘かまことか調べさせて欲しいと思います」といわせた。
 神功皇后はお許しになった。