日本の降伏

日本の降伏とは、第二次世界大戦大東亜戦争日中戦争及び太平洋戦争)において日本が、アメリカ・イギリス・中華民国ソビエト連邦によるポツダム宣言を受諾して降伏した出来事である。現在の日本で単に「敗戦」というと、この第二次世界大戦の降伏を指す事が多い。

今日、「終戦の日」とは、昭和天皇玉音放送によって、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したこと(=日本の降伏)を国民に向けて明らかにした1945年(昭和20年)8月15日とすることが一般的である。

一方、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告したのは前日の8月14日であり、玉音放送によって読み上げられた「終戦詔書」の日付もこの日となっている。また、日本政府及び連合国代表が降伏文書(休戦協定)に調印した日は、同年9月2日であり、諸外国ではこの日を「対日戦争終結の日」や「終戦の日」としている例が多い(対日戦勝記念日を参照)。

降伏文書(休戦協定)への調印により、第二次世界大戦(太平洋戦争)は終結した。日本は連合国軍による占領統治のもとに置かれ、一連の戦後改革が行われることとなった。昭和22年(1947年)5月3日には、日本国憲法が施行された。1952年(昭和27年)4月28日、サンフランシスコ平和条約が発効し、法的にも戦争状態が終結するとともに、連合国による占領が終結し日本は主権を回復した。

一方で、日本政府がポツダム宣言の受諾を連合国側に通告した8月14日以後も、満州や千島列島(占守島の戦いも参照)、樺太ではソビエト連邦軍赤軍)との戦闘が継続された。このことはシベリア抑留や、今日まで続く北方領土問題などとも関連している。また、横井庄一小野田寛郎に代表されるように、終戦の伝達が不可能な環境下にあったため、戦後も長い間山中などで戦闘状態にあった兵士も多くいた(大半が数年で帰還した)。旧日本軍兵士や満蒙開拓青少年義勇軍たちの中には、八路軍や国民政府軍に強制的に参加させられ、国共内戦に従軍した者もあった。また自ら除隊しインドネシア独立戦争や、ベトナム独立戦争に身を投じる者もいた。
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