孝明天皇 天保2年6月14日 - 慶応2年12月25日

孝明天皇天保2年6月14日(1831年7月22日) - 慶応2年12月25日(1867年1月30日))は、江戸時代末期に在位した第121代天皇。在位は1846年3月10日(弘化3年2月13日)‐ 1867年1月30日(慶応2年12月25日)。幼称は煕宮(ひろのみや)。諱は統仁(おさひと)。明治天皇の父に当たる。

仁孝天皇の第四皇子。実母は正親町実光の娘・仁孝典侍の藤原雅子(新待賢門院)。養母は左大臣鷹司政凞の娘で仁孝天皇女御の藤原祺子(新朔平門院)。正妃は九条尚忠の娘・九条夙子。

女御
九条夙子(英照皇太后)(1834-1897)
第一皇女:順子内親王(1850-1852)
第二皇女:富貴宮(1858-1859)
養子:睦仁親王明治天皇
典侍
坊城伸子(1830-1850)
第一皇子:妙香華院(1850)
中山慶子(三位局)(1835-1907)
第二皇子:睦仁親王明治天皇)(1852-1912)
堀河紀子(1837-1910)
第三皇女:寿万宮(1859-1861)
第四皇女:理宮(1861-1862)
今城重子(1828-1901)
今城尚子
養子・猶子
載仁親王三宝院門跡、還俗後に閑院宮を相続)
貞愛親王伏見宮
博経親王知恩院門跡、還俗後は華頂宮
智成親王(聖護院門跡、還俗後は北白川宮

幼名は煕宮。天保11年3月14日(1840年4月16日)に立太子。弘化3年(1846年)に父・仁孝天皇崩御を受け践祚した。父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで公家の学問所である学習院を創設した。

嘉永6年(1853年)のペリー来航以来、政治への積極的な関与を強め、安政5年(1858年)7月27日には40年にわたって朝政を主導してきた太閤・鷹司政通の内覧職権を停止して落飾に追い込み、更に2ヶ月後の9月4日には関白・九条尚忠の内覧職権も停止(関白職は留任、10月19日停止解除)して朝廷における自身の主導権確保を図っている。

また、幕政に発言力を持ち、大老井伊直弼が諸外国と勅許を得ずに条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷勅命を下したこともあった(文久3年(1863年)3月の攘夷勅命)。これを受けて下関戦争や薩英戦争が起き、日本国内では外国人襲撃など攘夷運動が勃発した。孝明天皇は攘夷の意思が強く、異母妹・和宮親子内親王を第14代征夷大将軍徳川家茂に降嫁させるなど、公武合体運動を推進し、あくまで幕府の力による鎖国維持を望んだ。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために賀茂神社石清水八幡宮行幸している(もっとも行幸孝明天皇自身の意思であるか疑問が存在することは後述する)。京都守護職である会津藩主・松平容保への信任は特に厚かったと言われる。

しかし慶応元年(1865年)、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の意志にあると見た諸外国は艦隊を大坂湾に入れて条約の勅許を天皇に要求したため、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許を出す事にした。だが、この年には実際には宮中のみに留まったものの西洋医学の禁止を命じるなど、保守的な姿勢は崩さなかった。もっとも、遺品として時計[2]が残るなど、西洋文明を全く否定していた訳ではない。

幕末期において、天皇及び朝廷の政治的地位は外見上は急速に高まっていき、天皇自身も当初はこれに対応しようとしていた。ところが、実際には幕府・一会桑・薩摩藩長州藩などの諸藩・公家・志士たちの権力を巡る争奪戦に巻き込まれていくと、孝明天皇自身の権威は低下していくことになった。文久3年(1863年)4月22日付の中川宮宛の書簡では、4月10日の石清水八幡宮行幸について体調不良にも関わらず三条実美らに「無理にでも鳳輦に載せる」と強迫されたと告白し、同年の八月十八日の政変直後に出されたと見られる日付不明の二条斉敬・中川宮・近衛忠煕宛の書簡では「表ニハ朝威ヲ相立候抔抔ト申候得共、真実朕之趣意不相立、誠我儘下ヨリ出ル叡慮而已」と述べ自分の真意とは異なる勅語(「大和行幸の勅」)が作成される現状を嘆いている。 このような状況の中で、次第に公武合体の維持を望む天皇の考えに批判的な人々からは天皇に対する批判が噴出するようになる。

第2次長州征伐の勅命が下されると、大久保利通西郷隆盛に対する書簡で「非義勅命ハ勅命ニ有ラス候」と公言し、岩倉具視は国内諸派の対立の根幹は天皇にあると暗に示唆して、孝明天皇が天下に対して謝罪することで信頼回復を果たし、政治の刷新を行うことで朝廷の求心力を回復せよと記している。 こうした中で慶応2年(1866年)8月30日には天皇の方針に反対して追放された公家の復帰を求める廷臣二十二卿列参事件が発生し、その後薩摩藩の要請を受けた内大臣近衛忠房天皇が下した22卿に対する処分の是非を正そうとしたことから、天皇が近衛に対して元服以来の官位昇進の宣下をしたのは誰か、奏慶(御礼の参内)は何処で行ったのかと糾弾する書簡を突きつけている。

慶応2年(1866年)12月25日、在位21年にして崩御。宝算36(満35歳没)。死因は天然痘と診断された。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87


明治天皇嘉永5年9月22日(1852年11月3日) - 1912年(明治45年)7月30日)は、日本の第122代天皇。諱は睦仁(むつひと)。御称号は、祐宮(さちのみや)。お印は、永(えい)。倒幕・攘夷派の象徴として、また近代日本の指導者と仰がれた。その盛名により戦前・戦中には明治大帝、明治聖帝、睦仁大帝(Mutsuhito the Great)とも称された。

生誕から即位まで

孝明天皇の第二皇子。母は権大納言中山忠能の娘・藤原慶子(ふじわら の よしこ)。嘉永5年9月22日(1852年11月3日)13時頃、京都・中山忠能邸にて生誕。嘉永5年9月29日、父・孝明天皇が祐宮(さちのみや)と命名。

万延元年(1860年)7月10日、儲君となる。9月28日、孝明天皇から親王宣下を受け、「睦仁」の名を賜る(=睦仁親王となる)。

慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇崩御。慶応3年1月9日(同2月13日)、満14歳で践祚の儀を行い践祚元服前の践祚であったため、「皇太子」の地位を経ずに天皇となっている。

慶応4年1月15日(1868年2月8日)、元服。同年8月21日(10月6日)から関連儀式をいくつも執り行った。殊に崇徳天皇に礼を尽くしてその霊を京都に迎え入れた。それらを経て8月27日(1868年10月12日)、京都御所にて御大礼を執り行い、即位したことを内外に宣下(詳細は明治天皇即位の礼大嘗祭を参照)。なお明治4年11月17日(1871年12月28日)に東京にて大嘗祭を行った。

幕末の動乱

践祚から間もなくして、薩摩藩や一部の公卿を中心に討幕論が形成され、幕府と討幕派は、それぞれ朝廷への工作を強めていた。次第に討幕派が優勢になり始めると、これをかわすために征夷大将軍徳川慶喜が慶応3年10月15日(1867年11月10日)に大政奉還の上奏を行い、明治天皇はこれを勅許した。形式的に政権を朝廷に戻されたものの、引き続き徳川幕府の統治機能は存続したため、対抗策として討幕派は12月9日(1868年1月3日に王政復古の大号令を発し、「新政府樹立」を宣言。反発した旧幕府勢力と明治元年(1868年)正月に京都南郊で軍事衝突する(鳥羽・伏見の戦い)これに勝利した新政府軍は旧幕府勢力を「朝敵」・「賊軍」とし、翌明治2年(1869年)にかけての内戦(戊辰戦争)を経て、これを平定した。

新時代・明治

この間、明治元年3月14日(1868年4月6日)には五箇条の御誓文を発布して新政府の基本方針を表明し、閏4月21日(6月11日)には政体書によって新しい政治制度を採用。また、明治と改元して一世一元の制を定めた(改元詔書を発したのは、慶応4年9月8日(1868年10月23日)。しかし改元は、慶応4年1月1日(1868年1月25日)に遡って適用するとした)。

江戸開城から半年を経た明治元年10月13日、明治天皇は初めて江戸に行幸し、同日江戸は東京に、江戸城は東京城に改められた(東京奠都)。一旦京都に還幸後、翌明治2年に再び東京に移り、以後は崩御まで東京に居住した。

明治2年6月17日(7月25日)には版籍奉還の上表を勅許した。当初、新政府内では公家や旧大名が中心を占めていたが、東京へ遷ったことも一つのきっかけとして、次第に三条実美岩倉具視木戸孝允大久保利通らの発言権が大きくなっていった。明治4年7月14日(1871年8月29日)には廃藩置県を断行し、中央集権体制を確立した。

他方、明治3年正月3日(1870年2月3日)には、宣教使ヲ置クノ詔(大教宣布の詔)を発して、神道の国教化(国家神道)と天皇の絶対化を推し進めた。岩倉、大久保らは、天皇を近代国家の主体的君主として育成するため、宮廷改革を行なって旧習を廃し、天皇親政体制への切り替えと君徳の培養に尽くした。

※注:1872年(明治5年)に太陽暦を導入し、明治5年12月2日(1872年12月31日)の次の日(1873年1月1日)を「明治6年1月1日」と定めた(明治5年太政官布告第337号)。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87