ヘンリー6世

ヘンリー6世(Henry VI, 1421年12月6日 - 1471年5月21日)はランカスター朝イングランド王(在位:1422年 - 1461年、1470年 - 1471年)。フランス王も兼ねた(在位:1422年 - 1453年)。1437年まで摂政が後見。ヘンリー5世とフランス王シャルル6世の娘キャサリン・オブ・ヴァロアの子。
同時代人からは、平和主義で敬虔だが、自身が直面した苛烈な抗争には不向きな人物として描かれた。彼の精神錯乱と生まれ持った博愛心は、やがて自身の没落とランカスター家の崩壊、ヨーク家の台頭につながった。

生涯
幼君
ヘンリー6世はヘンリー5世の唯一の子であり後継者であった。彼は1421年12月6日、ウィンザー城で誕生し、1422年8月31日、生後9ヶ月で父の死によりイングランド王位を、1422年10月には母方の祖父であるシャルル6世の死により、1420年のトロワ条約に従ってフランス王位を継いだ。当時20歳の母キャサリン・オブ・ヴァロアはシャルル6世の娘として疑惑の目を向けられ、息子の養育に十分な役割を果たすことは許されなかった。
1423年9月28日、貴族達はヘンリー6世に忠誠を誓った。彼らは国王の名の下に議会を召集し、王の成年まで摂政会議を置いた。叔父の1人ベッドフォード公ジョンは王国の摂政に任命され、フランスでの戦争継続に当たった。ベッドフォード公の不在中は、イングランドの政府の首班は、護国卿に任じられたもう1人の叔父グロスター公ハンフリーであった。
ヘンリー6世の任務は平和の維持と議会の召集に限定された。司教ヘンリー・ボーフォート(1426年以降は枢機卿)はヘンリー5世の叔父(ヘンリー5世の父であるヘンリー4世とボーフォート司教はともにジョン・オブ・ゴーントの子であったが、彼らは腹違い)であり、摂政会議の重要人物であった。1435年のベッドフォード公の死後、グロスター公は摂政の座を要求したが、これは摂政会議の他のメンバーの反対にあった。
1428年からヘンリーの傅役はウォリック伯リチャード・ビーチャムで、彼の父トーマスはリチャード2世の統治に反対した貴族勢力の中心人物であった。
ヘンリー6世の異父弟エドマンドとジャスパーは、未亡人となった母后キャサリンがオウエン・テューダーとの間に儲けた子であり、後にそれぞれ伯爵に叙された。エドムンドは、後にイングランド王位に就くヘンリー7世の父である。
ヘンリー6世は1429年11月、8歳の誕生日の1ヶ月前にウェストミンスター大聖堂でイングランド王の戴冠を受けた。そしてヴァロワ家のシャルル7世が1429年7月17日にランス・ノートルダム大聖堂戴冠式を挙行したことを受け、1431年12月16日、パリのノートルダム大聖堂でフランス王として戴冠した。

親政の開始と対仏政策
母が亡くなった1437年にヘンリー6世は成年となって親政を開始したが、すぐに一握りの寵臣達(お互いに対仏戦争に関する方策で意見が対立している貴族達)に宮廷を好きにさせてしまった。
ヘンリー5世の死後、ジャンヌ・ダルクの勝利に始まるヴァロア家失地回復の中、イングランドにおける百年戦争継続の機運は失速していた。若い国王はフランスとの平和政策を好むようになっており、同様の志向を持つボーフォート枢機卿、サフォーク伯ウィリアムの派閥を贔屓にしていた。一方で、戦争の継続を訴えるグロスター公やヨーク公リチャードはないがしろにされた。

マーガレット・オブ・アンジューとの結婚
ボーフォート枢機卿とサフォーク伯はフランスとの平和を求める最善の道は、シャルル7世の王妃の姪にあたるマーガレット・オブ・アンジューとの結婚であると国王に説いた。ヘンリー6世はマーガレットが驚くほど美しいとの報告を受けた時にはとりわけ結婚への同意を示し、サフォーク伯をシャルル7世のもとに派遣した。シャルル7世はフランス側からは持参金を提供せず、かわりにイングランドからメーヌとアンジューを割譲されるとの条件で結婚に同意していた。これらの条件はトゥール条約で同意されたが、メーヌとアンジューの割譲はイングランド議会には秘密にされた。イングランド臣民から大きく不興を買うことが明らかだったからである。結婚は1445年に行われた。
ヘンリー6世は、メーヌとアンジューの割譲が不評でグロスター・ヨークの両公爵から反対されることが分かっていたため、その実行をためらっていた。だがマーガレットは国王にやり通すように仕向けた。1446年に条約が公になると民衆の怒りはサフォーク伯に向けられたが、国王と王妃は彼を擁護した。

サフォークとサマセットの台頭
1447年、国王と王妃は議会の召集に先立ち、グロスター公を反逆の容疑で召喚した。これは、グロスター公の政敵であるサフォーク伯、老ボーフォート枢機卿とその甥であるサマセット伯エドムンド・ボーフォートに唆されたものであった。グロスター公はベリー・セント・エドムンズに監禁され、審理の前におそらくは心臓麻痺のためそこで亡くなった。
ヘンリー6世の推定相続人であるヨーク公は宮廷から締め出され、アイルランド統治に派遣された。一方で彼の政敵サフォーク・サマセットの両伯爵は公爵に昇叙された。公爵位は通常、君主の直系の近親のみに与えられるものであった。公爵となったサマセットは戦争指導のためフランスへ赴いた。
ヘンリーの統治の後半、法と秩序の崩壊、汚職、王領の寵臣たちへの分配、王室財政の窮乏、フランスでの恒常的な失地といった要因で、ヘンリー6世の統治はますます不評になっていた。この不評は1447年に、国王の取り巻きの中で最も人気がなく反逆者とみなされていたサフォーク公への、庶民院の反対運動という形で表出した。ヘンリー6世はやむなくサフォーク公を追放したが、彼を乗せた船は英仏海峡待ち伏せされ、暗殺された。サフォーク公の遺体は、ドーバーの浜辺で発見された。
1449年、フランスでの軍事行動を指揮していたサマセット公は、ノルマンディーで再び戦端を開いたが、秋までにはカーンまで押し返された。1450年までにフランスはイングランド軍をフォルミニーの戦いで破り、ヘンリー5世が苦労の末勝ち取った全ての州を奪還した。往々にして報酬を支払われることがなかった帰還兵たちは、イングランド南部諸郡における無法状態を助長した。そして、ヨーク公に共感しジョン・モーティマーと自らを称するジャック・ケードが、サザークのホワイトハート・イン (「ホワイトハート(白い雄鹿)」は王位を逐われたリチャード2世のシンボルであった) を本拠として、ケントの反乱を率いた。
ヘンリーは反乱を鎮めるため軍を率いてロンドンに向かったが、彼は軍の半分がセブンオークのケードに面会している間、残りの半分を待機させておくよう説得された。ケードは勝利し、ロンドンを占領するため軍を進めた。結局、反乱は何の成果もなく、数日間の無秩序の後、ロンドンは再び王軍の手に帰した。しかしこの反乱は不満が高まっていることを示すものだった。
1451年、ヘンリー2世の時代からイングランドの占領下にあったアキテーヌ公爵領がフランス側の手に陥ちた。1452年10月、イングランド軍はアキテーヌに進攻してボルドーを奪還し、いくらかの軍事的成功を収めたが、1453年までにはカスティヨンの戦いで敗北、ボルドーは再び奪われ、大陸におけるイングランドの拠点はカレーを残すのみとなっていた。この時点で百年戦争の事実上の終結とされている。

精神錯乱とヨーク公の台頭
1452年、ヨーク公は周囲に、アイルランドから帰還して摂政会議での正当な地位を主張し、悪政に終止符を打つよう説得された。ヨーク公の主張は広く受け入れられており、彼はシュルーズベリーで挙兵した。宮廷の一派はロンドンで同規模の軍を起こした。ヨーク公は不満事項と宮廷一派への要求を記したリスト(サマセット公の逮捕も含むものであった)を示し、ロンドンの南部で事態は膠着した。ヘンリー6世は初めはヨーク公の要求に同意したものの、王妃マーガレットがサマセット公の逮捕を阻止すべく干渉した。1453年までにサマセット公の影響力は回復し、ヨーク公は再び孤立した。宮廷派は王妃懐妊が公表された事でその結束力も増した。
しかし、1453年8月のボルドー失陥の報を受け、ヘンリー6世は精神疾患に陥り、自身の周りで起こっている事を全く認識できなくなってしまった。これはその後1年間続き、エドワードと名づけられた自身の後嗣の誕生にも反応できなかった。ヘンリー6世のこの病は、おそらく母方の祖父で、その死の前の30年間にわたって断続的に精神錯乱を起こしたシャルル6世から遺伝していたと考えられる。
ヨーク公はこの間、ネヴィル父子(ソールズベリー伯リチャード・ネヴィル、ウォリック伯リチャード・ネヴィル)という重要な同盟者を得ていた。ウォリック伯はもっとも影響力をもった大諸侯の一人であり、おそらくヨーク公自身よりも豊かであった。ヨーク公は護国卿として摂政の座に指名された。ヨーク公の支持者たちが「王子エドワードの父親は実はサマセット公だ」との噂を流している間、王妃は完全に排除され、サマセット公はロンドン塔に監禁された。そのほかヨーク公摂政としての任期は、政府の支出超過問題の解決に費やされた。

薔薇戦争
1454年のクリスマスの日、ヘンリー6世は正気を取り戻した。彼の治世下で実力を増していた不平貴族達(最重要人物はソールズベリー伯・ウォリック伯父子であった)は、ヘンリーと対立するヨーク家の要求(始めは摂政位、後に王位自体に対する要求)を支持することで積極的に事態に関与した。これら諸侯の思惑が交錯する中で1455年5月に薔薇戦争は勃発した。初戦の第一次セント・オールバンズの戦いでランカスター派は大敗、ヘンリー6世は捕らえられ、サマセット公とノーサンバランド伯ヘンリー・パーシーは戦死した。
この内乱の中でヘンリー6世はしばしばヨーク派に捕らえられた。捕らわれの身の間にまたも彼の精神状態は悪化し、ヨーク派に捕らわれていた第二次セント・オールバンズの戦いでは戦闘の最中に笑い出したり歌ったりの錯乱の発作に襲われていた。結局ヨーク公リチャードの息子エドワードが1461年3月4日にエドワード4世としてイングランド王に即位し、ヘンリー6世は実質的に退位させられた。
新国王エドワード4世は続くタウトンの戦いでスコットランドに逃げた前国王夫妻を取り逃がしたものの、王位を得ることはできた。エドワード4世治世の当初のランカスター派は、マーガレットといまだ彼女に忠誠を誓う貴族たちによる指導体制でイングランド北部とウェールズで抵抗運動を続けていたが、1465年にヘンリー6世はランカシャーのクリズローで捕えられ、ロンドン塔に送られて監禁されてしまった。

王位への復帰
その頃、マーガレット王妃は逃亡先のスコットランドも追われ、フランスに逃亡せざるを得ない状況であった。フランスでの数年間は貧困生活が待っていたが、マーガレット王妃は夫と息子のために王位を奪還することを誓っていた。彼女自身でなせることはほとんどなかったが、やがてエドワード4世は主要な支援者であるウォリック伯と弟のクラレンス公ジョージと相次いで仲違いした。フランス王ルイ11世の後押しで、彼らはマーガレットと秘密同盟を結んだ。
ウォリック伯は自分の末娘アンをヘンリーとマーガレットの息子エドワードと結婚させた後イングランドに戻り、戦闘でヨーク派を破り、1470年10月30日、ヘンリー6世を復位させた。しかし潜伏とそれに続く幽閉の日々は彼の健康を蝕んでおり、ウォリック伯とクラレンス公がヘンリー6世の名の下で事実上の統治を行った。
ヘンリー6世の復位期間は6ヶ月も続かなかった。間もなくウォリック伯はブルゴーニュ公国に宣戦を布告し、ブルゴーニュ公シャルルはエドワード4世に王位奪還に必要な軍事的支援を与えることで応じた。エドワード4世は1471年5月4日、テュークスベリーの戦いで決定的な勝利を収め、ヘンリー6世の息子エドワード皇太子は殺された。

最期
ヘンリー6世はロンドン塔に幽閉され、1471年5月21日あるいは22日にそこで亡くなった。エドワード4世寄りの公的年代記「Arrival」によると、テュークスベリーの戦いとエドワード皇太子の死の知らせを聞き、鬱病になって死んだとされる。しかし、エドワード4世が暗殺を命じたのではないかと広く疑われている。1世紀以上の後、シェイクスピアの史劇「リチャード三世」は、エドワードの弟グロスター公リチャードを下手人として描いている。ヘンリーはチェルトシー寺院に埋葬された後、1485年にウィンザー城のセント・ジョージチャペルに移された。

遺産
後世まで残るヘンリー6世の業績は、教育の発展である。彼はイートン校とケンブリッジ大学キングス・カレッジを設立した。父王ヘンリー5世が始めた建築への支援を引き継ぎ、イートン・カレッジ礼拝堂やキングス・カレッジ礼拝堂や彼の支援になる他の建築物の大半(ヘンリー5世が着工し、ヘンリー6世が完成させたシオン寺院など)は、単一の後期ゴシックあるいは垂直様式の教会に修道院と(あるいは)教育機関としての基盤が付与されたものであった。
毎年ヘンリー6世の命日には、イートン校とキングス・カレッジの総長が、白百合と薔薇そして花を象った両校の紋章をロンドン塔のウェイクフィールド・タワーにあるヘンリーが祈祷中に殺害されたとされる現場に手向けている。