1170〜1171 太政大臣 藤原基房

若ヘンリー王またはヘンリー若王(英: Henry the Young King, 仏: Henri le Jeune, 1155年2月28日 - 1183年6月11日)は、イングランド王ヘンリー2世と妃アリエノール・ダキテーヌの次男。
兄ウィリアム(ギヨーム)が夭逝したため、実質的な長男として父の後継者に定められ、また1170年に共同君主に立てられた。しかし、君主としての実権はなく、また、父が自分の教育係であったトマス・ベケットを暗殺したことや末弟ジョン(後のジョン王)を偏愛することに反発し、母や義父であるフランス王ルイ7世の後押しを受けて、弟リチャード(フランス語ではリシャール、後のリチャード1世)、ジェフリー(ブルターニュ公ジョフロワ2世)と共に、父に対して1173年に反乱を起こした。
翌1174年に若ヘンリーらは父と和解するが、その後も不和は続いた。1182年にはリチャードが自分への臣従礼を拒否したことから、ジェフリーと組んでリチャードと交戦した。しかし翌1183年、若ヘンリーは熱病に冒され、死の床で父に背いて争いのもととなった罪を懺悔、母アリエノールの自由を願いつつ28歳で病死した。
1160年にフランス王ルイ7世の娘(フィリップ2世の異母姉)マルグリットと結婚した。1177年に長男ウィリアムが生まれたが、早世した。マルグリットはのちにハンガリー王ベーラ3世と再婚した。