第64代 円融天皇 969年8月13日〜984年8月27日

大鏡 第一巻 帝紀 一 六十四代 円融院
 つぎの天皇円融天皇と申しました。〔御緯は守平です。〕この方は村上天皇の第五皇子です。御母は冷泉院天皇と同じでいらっしゃいます。この天皇は天徳三年三月二日にお生まれになりました。


円融天皇(959年4月12日(天徳3年3月2日) - 991年3月1日(正暦2年2月12日)は第64代天皇(在位:969年9月27日(安和2年8月13日) - 984年9月24日(永観2年8月27日))。諱は守平。
村上天皇の第五皇子で、母は右大臣藤原師輔の娘・中宮安子。冷泉天皇の同母弟。

村上天皇の第五皇子、中宮安子所生の3番目の皇子として誕生する。冷泉天皇為平親王の2人の同母兄のほか、4人の同母姉妹がいた。応和4年(964年)、幼くして母・安子を亡くす。安子の死後は安子の妹である藤原登子(重明親王の妻)に育てられ、資子ら他の兄弟と共に中宮権大夫を務めていた藤原兼通(安子の弟・登子の兄)に庇護されていた[1]。
守平親王の兄である冷泉天皇が即位の後、次期皇太弟をめぐり藤原氏左大臣源高明が対立、康保4年(967年)9月1日、9歳の守平親王立太子し、さらに対立は安和の変(安和2年、969年3月)が起こり源高明が失脚した。高明の娘を妃にしていた為平親王は差し置かれる形になり、5ヶ月の9月23日には冷泉天皇が譲位、守平親王円融天皇として即位する。即位後すぐに親密だった同母姉の資子内親王を一品准三后とした。
即位時はまだ数え11だったため、大伯父にあたる太政大臣藤原実頼摂政に就任。天禄元年(970年)に実頼が薨去すると、天皇の外舅藤原伊尹摂政を引き継ぐ。同3年(972年)1月3日に元服を迎える(『日本紀略』)が、その直後に伊尹が在職1年あまりで薨去すると、その弟の兼通と兼家の間で関白職を巡って熾烈なる争いが始まったが、天皇は亡母の遺訓に従って兼通を関白に任じた。翌4年(973年)、兼通の娘・媓子を入内させ中宮とする。当初、円融天皇は兄・冷泉上皇の子が成長するまでの「一代主」、すなわち中継ぎの天皇とみなされており、外舅である伊尹も兼家も娘を天皇に入内させる考えはなかった。その中で安子所生の皇子女の面倒を見続けた兼通が天皇の唯一の後見として浮上し、円融天皇・関白兼通主導で新たな皇統形成が図られたと考えられている[1]。貞元2年(977年)に関白兼通が重病に陥ると、兼通の要望に従って外戚関係のない藤原頼忠を後任とした。これは兼通の権勢に従ったものと考えられるが、当時兼家は自身の兄である冷泉上皇には長女・超子を入内させていたのに対して、自身の許には娘を入内させておらず、そのため円融天皇自身も兼家に含むところがあり、むしろ自身に娘・遵子を入内させていた頼忠の方に好意を抱いていたとする見方もある。
しかしその後に兼家も天元元年(978年)に次女・詮子を入内させ、同3年(980年)6月に女御となった詮子は天皇の唯一の皇子女である懐仁親王(後の一条天皇)を儲けた。前年天元2年(979年)の中宮媓子の崩御中宮職が空きとなったがすぐには冊立しようとせず、天元5年(982年)になって入内していた頼忠の娘の遵子を冊立した。ただし遵子はこれ以前にも以後にも皇子女を産むことはなく「素腹の后」とあだ名された。こうした一連の動きに立腹した兼家は、娘の詮子と外孫の懐仁親王を自邸に連れ帰り籠って出仕しなかった。一方の円融天皇も2度にわたる内裏の焼失の際にも兼家への依存を拒み、関白頼忠邸や譲位後も仙洞御所として使用した故兼通邸の堀河殿を里内裏としてしのいでしまう。両者の意地の張り合いは収まらなかった。
やがて天皇は、藤原氏の勢力争いに翻弄されたあげく永観2年(984年)、息子の懐仁親王立太子を条件に兄・冷泉帝の皇子・師貞親王に譲位して花山天皇が立った。その後は比較的自由な上皇の身で、詩歌管絃の遊楽や石清水八幡宮石山寺・南都諸寺への御幸を行っている。寛和元年(985年)2月13日、紫野において盛大な「子の日の御遊」を催し、平兼盛大中臣能宣清原元輔源重之・紀時文らを含む当代の著名歌人に和歌を奉らせた。『今昔物語集』巻28にある、曾禰好忠が召されもしないのにみすぼらしい狩衣姿で推参して追い出されたという有名は逸話は、この時の話である。
寛和2年(986年)6月23日、寛和の変により花山帝は懐仁親王に譲位し数え7歳の一条天皇が立った。一条朝では幼帝を指導して強い発言権を持ち、院政の意図があったともいわれ、いまだに摂政となった兼家と意見が対立することもあったことが、院別当として信頼厚かった藤原実資の『小右記』によって分かる。
なお、兄の為平親王には後に式部卿や一品を叙されており、これは皇族でももっとも上位の者が叙任されるもので、円融法皇や後の一条天皇による政治的な配慮があったとされる。
和歌を愛好し、『拾遺集』以下の勅撰集に24首入集。ほかに『円融院御集』も伝わる。