藤原鎌足の死

日本書紀 巻第二十七 天智天皇

 九年春一月七日、士大夫らに詔して、宮廷内で大射礼があった。
 十四日、朝廷の礼儀と、道路で貴人と行きあったとき、道を避けるべきことを仰せ出された。
 二月、戸籍を造り、盗人と浮浪者とを取締った。同月、天皇蒲生郡の日野にお越しになり、宮を造営すべき地をご覧になった。

 三月九日、山の井(三井寺の泉)のそばに、諸神の座を設け、幣帛を捧げられた。

 夏四月三十日、暁に法隆寺に出火があった。

 五月、童謡が行なわれた。

 六月、ある村の中で亀をつかまえた。

 秋九月一日、阿曇連頬垂を新羅に遣わした。この年、水碓(水力の臼)を造って鉄を鋳た。


新唐書(巻二百二十・東夷) 日本
 咸亨元年(六七〇年)、日本は唐に使者を遣わして、唐が高句麗を平定した(六六八年)ことを慶賀した。その後日本人は、しだいに中国語に習熟し、倭という呼び名をきらって日本と改号した。使者がみずから言うに、
「わが国は太陽の出る所に近いから、それで国名としたのだ」
 と。また、こういう説もある。
「日本は小国だったので、倭に併合され、そこで倭が日本という国名を奪ったのだ」
 使者が真相を語らないのでこの日本という国号の由来は疑わしい。また、その使者はいいかげんなことを言ってはほらを吹き、日本の国都は数千里四方もあり、南と西は海に達し、東と北は山に限られており、山の向こうは毛人の住む地だ、などと言っている。

















三国史記 巻第六

新羅本紀第六 文武王 上

第三〇代 文武王(在位六六一―六八一)

 十年(六七〇)春正月、唐の高宗は欽純を許して国に返したが、良図はとどめ囚えた。


三国史記 巻第二十二

高句麗本紀第六 寳臧王 下

 咸亨元年庚午の歳(六七〇)夏四月になると、〔高句麗の〕剣牟岑は国家を復興しようとして、唐に反乱をおこし、王の外孫の安舜(分注。〔新〕羅〔本〕紀では、勝とする)を立てて、君主とした。唐の高宗は、大将軍の高侃を、東州道行軍縈管とし、出兵してこれを討たせた。安舜は剣牟岑を殺して新羅に逃げた。