第三〇代 文武王(在位六六一―六八一)

三国史記 巻第六

新羅本紀第六 文武王 上

第三〇代 文武王(在位六六一―六八一)

 八年(六六八)春、阿麻(未詳)が服属して来た。


天智天皇(推古34年(626年)- 天智天皇10年12月3日(672年1月7日))は第38代天皇。和風諡号は天命開別尊(あめみことひらかすわけのみこと / あまつみことさきわけのみこと)。一般には中大兄皇子(なかのおおえのおうじ / なかのおおえのみこ)として知られる。「大兄」とは、同母兄弟の中の長男に与えられた皇位継承資格を示す称号で、「中大兄」は「二番目の大兄」を意味する語。諱(実名)は葛城(かづらき/かつらぎ)。漢風諡号である「天智天皇」は、代々の天皇の漢風諡号と同様に、奈良時代淡海三船によって撰進され、「殷最後の王である紂王の愛した天智玉」から名付けられたと言われる。

事績
舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇重祚して斉明天皇)。皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。ただし皇后との間に皇子女はない。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)、中大兄皇子中臣鎌足らと謀り、皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(大化の改新)を行なった。また有間皇子など、有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。
百済が660年に唐・新羅に滅ぼされたため、朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、百済復興を図った。百済救援を指揮するために筑紫に滞在したが、斉明天皇7年7月24日(661年8月24日)斉明天皇崩御した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制したが、天智天皇2年7月20日(663年8月28日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、同6年3月19日(667年4月17日)に近江大津宮(現在の大津市)へ遷都し、翌同7年1月3日(668年2月20日)、漸く即位した。同年2月23日(668年4月10日)には、同母弟・大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。しかし、同9年11月16日(671年1月2日)に第一皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、同10年10月17日(671年11月23日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。
なお、斉明天皇崩御(661年)後に即日中大兄皇子は称制して暦が分かりにくくなっているが、日本書紀では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、崩御翌年(662年)が天智天皇元年に相当する。
白村江の戦以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。即位後(670年)には、日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
天智天皇は、大友皇子皇位を継がせたかった」と日本書紀は伝える。しかし、天智天皇崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。以降、天武系統の天皇称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、以降は天智系統が続く。
大海人皇子から額田王を奪ったという話も有名だが、事実ではないという説もあり真偽ははっきりしない。

系譜
皇后:倭姫王(やまとひめのおおきみ) - 古人大兄皇子娘
嬪:蘇我遠智娘(おちのいらつめ) - 蘇我倉山田石川麻呂女
大田皇女(おおたのひめみこ) - 天武天皇妃 、大津皇子大来皇女
鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ、持統天皇) - 天武天皇后、草壁皇子
建皇子(たけるのみこ) - 夭逝
嬪:蘇我姪娘(めいのいらつめ、桜井娘) - 蘇我倉山田石川麻呂娘
御名部皇女(みなべのひめみこ) - 高市皇子妃、長屋王
阿閇皇女(あへのひめみこ、元明天皇) - 草壁皇子妃、文武天皇元正天皇・吉備内親王
嬪:蘇我常陸娘(ひたちのいらつめ) - 蘇我赤兄
山辺皇女(やまべのひめみこ) - 大津皇子
嬪:阿倍橘娘(たちばなのいらつめ) - 阿倍倉梯麻呂の女
明日香皇女(あすかのひめみこ)
新田部皇女(にいたべのひめみこ) - 天武天皇妃、舎人親王
夫人:道君伊羅都売(いらつめ) - 道君氏女
志貴皇子(しきのみこ、施基皇子・春日宮天皇。後に親王) - 光仁天皇
采女:宅子娘(やかこのいらつめ) - 伊賀国造某女?
大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇
(阿閇皇子 - 日本書紀に見えず、疑問)
(阿雅皇女 - 同上)
宮人:忍海造色夫古娘(しこぶこのいらつめ) - 忍海造小竜女
川島皇子(かわしまのみこ) - 淡海朝臣・春原朝臣
大江皇女(おおえのひめみこ) - 天武天皇妃、長皇子・弓削皇子
泉皇女(いずみのひめみこ、後に内親王) - 伊勢斎宮
宮人:栗隈首黒媛娘(くろひめのいらつめ) - 栗隈首徳万女
水主皇女(みぬしのひめみこ、後に内親王

略歴
推古34年(626年) - 誕生
皇極4年6月14日(645年7月12日) - 立太子
斉明7年7月24日(661年8月24日) - 称制
天智7年1月3日(668年2月20日) - 即位
天智10年12月3日(672年1月7日) - 宝算46で崩御
中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。
天武天皇を推す勢力への配慮。即ち、従来定説とされてきた、天武天皇天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8〜9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は本朝皇胤紹運録等が採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、直ちに即位しなかった)の為に誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なる為、同一には扱えないとの意見もある。
乙巳の変軽皇子孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は母親である皇極天皇と共に地位を追われたという説。近年、中大兄皇子蘇我入鹿の関係が比較的良好であり基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると、中大兄皇子の変事の年齢は弱冠二十と若く皇極天皇以外に強力な後ろ盾が無い事を鑑みると、親子程の歳の差のある軽皇子と違い皇位狙いで慌てて入鹿を殺害する動機が無くなる。また、日本書紀大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。また、この説では皇極天皇の退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。
天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)に当てた歌に彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。
斉明天皇の死後に間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証は無い。
天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。舒明の后には敏達・推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにも拘らず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にも直ちに即位せずに皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。
乙巳の変の意義を蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇重祚という乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説。
政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。


百人一首天智天皇の読み札)
万葉集に4首の歌が伝わる万葉歌人でもある。百人一首でも平安王朝の太祖として敬意が払われ、冒頭に以下の歌が載せられている。
秋の田の かりほの庵の苫をあらみ わが衣手は露にぬれつつ
万葉集からも以下の一首。
香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき神代よりかくなるらし古へもしかなれこそうつせみも褄を争ふらしき

遣新羅使
天智天皇7(668年)新羅の文武王の代に使節を送った
天智天皇9(670年)新羅の文武王の代に使節を送った


近江大津宮に宇御めたまひし天皇の代 天命開別天皇 諡して天智天皇と曰ふ
   天皇内大臣藤原朝臣に詔して、春山万花の艶きと、秋山千葉の彩れるとを競ひ憐ましめたまひし時に、額田王の、歌を以てこれを判めし歌
16冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は
   額田王近江国に下りし時に作りし歌、井戸王の即ち和せし歌
17味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山のまに い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや
   反歌
18三輪山を然も隠すか雲だにも心あらなや隠さふべしや
    右の二首の歌は、山上憶良大夫の類聚歌林に曰く、「都を近江国に遷しし時に、三輪山を御覧たまひし御歌なり」といふ。日本書紀に曰く、「六年丙寅の春辛酉の朔の己卯、都を近江に遷しき」といふ。
19綜麻かたの林の前のさ野榛の衣に付くなす目につくわが背
    右の一首の歌は、今案ふるに、和せし歌に似ず。但し、旧本この次に載す。