白村江の会戦

二十七日に日本の先着の水軍と、大唐の水軍が合戦した。日本軍は負けて退いた。大唐軍は陣を堅めて守った。二十八日、日本の諸将と百済の王とは、そのときの戦況などをよく見極めないで、共に語って「われらが先を争って攻めれば、敵はおのずから退くだろう」といった。さらに日本軍で隊伍の乱れた中軍の兵を率い、進んで大唐軍の堅陣の軍を攻めた。すると大唐軍は左右から船をはさんで攻撃した。たちまちに日本軍は破れた。水中に落ちて溺死する者が多かった。船のへさきをめぐらすこともできなかった。朴市田来津は天を仰いで決死を誓い、歯をくいしばって怒り、敵数十人を殺したがついに戦死した。このとき百済王豊璋は、数人と船に乗り高麗へ逃げた。
 九月七日、百済の州柔城は唐に降伏した。このとき国人は語り合って、「州柔城が落ちた。如何とも致しがたい。百済の名前は今日で終りだ。先祖の墓にも二度と行くことができぬ。ただ弖礼城に行って、日本の将軍たちに会い、今後の処置を相談しよう」といった。かねて枕服岐城に在った妻子どもに教えて、いよいよ国を去ることを知らせた。十一日、牟弖を出発、十三日弖礼についた。二十四日、日本の水軍と佐平余自信・達率木素貴子・谷那晋首・億礼福留と、一般人民は弖礼城についた。翌日船を出してはじめて日本に向かった。


白村江の戦いとは、663年(天智2年)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた、倭国百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍(羅唐同盟)との間の、海と陸の会戦のことである。
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