白村江の会戦

日本書紀 巻第二十七 天智天皇

 三月に前軍の将軍上毛野君稚子・間人連大蓋、中軍の将軍巨勢神前臣訳語・三輪君根麻呂、後軍の将軍阿倍引田臣比邏夫・大宅臣鎌柄を遣わし、二万七千人を率いて新羅を伐たせた。
 夏五月一日、犬上君が高麗に急行し、出兵のことを告げて還ってきた。そのとき糺解(豊璋)と石城で出会った。糺解は犬上君に鬼室福信の罪あることを語った。
 六月、前軍の将軍上毛野君稚子らが、新羅の沙鼻・岐奴江二つの城を取った。百済王豊璋は、福信に謀反の心あるのを疑って、掌をうがち革を通して縛った。しかし自分で決めかねて困り、諸臣に問うた。「福信の罪はすでに明かだが、斬るべきかどうか」と。そのとき達率徳執得が、「この悪者を許してはなりません」と言うと、福信は執得に唾をはきかけていった。「腐り犬の馬鹿者」と。王は兵士に命じて福信を斬り、曝首にするべく酢漬けにした。
 秋八月十三日、新羅は、百済王が自分の良将を斬ったことを知り、直ちに攻め入ってまず州柔(率城)を取ろうとした。ここで百済王は敵の計画を知って、諸将に告げて、「大日本国の救援将軍廬原君臣が、兵士一万余を率いて、今に海を越えてやってくる。どうか諸将軍たちはそのつもりでいて欲しい。私は自分で出かけて、白村江(錦江の川口付近)でお迎えしよう」といった。
 十七日に敵将が州柔に来て城を囲んだ。大唐の将軍は軍船百七十艘を率いて、白村江に陣をしいた。


萬葉集 巻第一

岡本宮に天の下治めたまひし天皇の代 天豊財重日足姫天皇、譲位の後、後岡本宮に即きたまふ

    額田王の歌

8 熟田津に 船乗りせむと 月待てば 潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな

     右、山上憶良大夫の類衆歌林に検すに、曰く、「飛鳥岡本宮に天の下治めたまひし天皇の元年己丑、九年丁酉の十二月、己巳の朔の壬午に、天皇・大后、伊予の湯の宮に幸す。後岡本宮に天の下治めたまひし天皇の七年辛酉の春正月、丁酉の朔の壬寅に、御船西つかたに征き、始めて海路に就く。庚戌、御船、伊予の熟田津の石湯の行宮に泊つ。天皇、昔日の猶し存れる物を御覧して、当時に忽ちに感愛の情を起したまふ。所以に因りて歌詠を製りて哀傷したまふ」といふ。即ち、この歌は天皇の御製なり。ただし、額田王の歌は、別に四首あり。

    紀の温泉に幸せる時に、額田王の作る歌

9 莫頁円隣之大相七兄爪謁気 我が背子が い立たせりけむ 厳橿が本

   莫頁 円隣之 大相七兄 爪謁気 吾瀬 子之 射立為兼 五可新 何本

   水郷 廻らせよ 大城に 拝謁せよ 来たれ 城が 立ちにけりに 行き来せむ 幾度


    中皇命、紀の温泉に往く時の御歌

10 君が代も 我が代も知るや 岩代の 岡の草根を いざ結びてな

11 我が背子は 仮櫨作らす 草なくは 小松が下の 草を刈らさね

12 我が欲りし 野島は見せつ 底深き 阿胡根の浦の 珠そ拾はぬ〈或は頭に云ふ、「我が欲りし子島は見しを」〉

     右、山上憶良大夫の類衆歌林に検すに、曰く、「天皇の御製歌なり云々」といふ。


    中大兄 近江宮に天の下治めたまひし天皇 の三山の歌一首

13 香具山は 畝傍雄雄しと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし 古も 然にあれこそ うつせみも 妻を 争ふらしき

    反歌

14 香具山と 耳梨山と あひし時 立ちて見に来し 印南国原

15 わたつみの 豊旗雲に 入日見し 今夜の月夜 さやけかりこそ

     右の一首の歌は、今案ふるに反歌に似ず。ただし、旧本にこの歌を以て反歌に載せたり。故に、今も猶しこの次に載す。また、紀に曰く、「天豊財重日足姫天皇の先の四年乙巳に、天皇を立てて皇太子としたまふ」といふ。


近江大津宮に天の下治めたまひし天皇の代 天命開別天皇、盆を天智天皇といふ

    天皇内大臣藤原朝臣に詔して、春山万花の艶と秋山千葉の彩とを競ひ憐れびしめたまふ時に、額田王、歌を以て判る歌

16 冬ごもり 春さり来れば 鳴かざりし 鳥も来鳴きぬ 咲かざりし 花も咲けれど 山をしみ 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木の葉を見ては 黄葉をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ嘆く そこし恨めし 秋山そ我は

    額田王近江国に下る時に作る歌、井戸王の即ち和ふる歌

17 味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積もるまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや

    反歌

18 三輪山を 然も隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや

     右の二首の歌は、山上憶良大夫の類衆歌林に曰く、「都を近江国に遷す時に、三輪山を御覧す御歌なり」といふ。日本書紀に曰く、「六年丙寅の春三月、辛酉の朔の己卯に、都を近江に遷す」といふ。

19 棕麻かたの 林の前の さ野榛の 衣に付くなす 目に付く我が背

     右の一首の歌は、今案ふるに、和ふる歌に似ず。ただし、旧本にこの次に載せたり。故以に猶し載せたり。

    天皇、蒲生野に遊猟する時に、額田王の作る歌

20 あかねさす 紫草野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

   茜草 指 武良前野 逝 標野 行 野守者 不見哉 君 之袖 布流

   あかね 股が むらさき野 ゆき しめの ゆき 野守は 見ずや きみ(大きい) はさみ ひろげり


    皇太子の答ふる御歌 明日香宮に天の下治めたまひし天皇、盆を天武天皇といふ

21 紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 我恋ひめやも

   紫草能 弥保蔽類 妹乎 弥苦久有者 人嬬故弥 吾 恋 目八方

   むらさきは 愛しや 妹よ 失い苦し 言かけくるに われ ひそやかに 脇見せむ


     紀に曰く、「天皇の七年丁卯の夏五月五日、蒲生野に縦猟す。時に、大皇弟・諸王・内臣また群臣、皆悉従ふ」といふ。