第三一代 義慈王(在位六四一―六六〇)

三国史記 巻第二十八

百済本紀第六 義慈王

第三一代 義慈王(在位六四一―六六〇)

 龍朔二年(六六二)七月、〔劉〕仁願・〔劉〕仁軌らが福信の軍隊を、熊津の東で大破し、支羅城(忠南大徳郡鎮岑面の城北里山城)および伊城、大山・沙井などの柵をおとしいれ、殺したり捕えたりしたものが、非常に多かった。そこで軍隊を分けてこれらの城柵を守らせた。福信らは真峴城が江に臨み高く嶮しい要衝であるので、軍隊を増加してこれを守らせた。〔劉〕仁軌は夜に新羅軍を督励して城の板のひめがきにせまり、夜明けに城に入って、八百人を斬り殺し、ついに新羅への糧道が通じた。〔劉〕仁願は上奏して、軍隊を増強するよう願いでたので、詔して、湽州(中国山東省昌濰臨湽)・青州(同濰坊市)・莱州(同烟台掖県)・海州(中国江蘇省徐州贛楡県)の軍隊七千人を動員し、左威衛将軍の孫仁師にこの軍隊を統括させ、海上を通って、〔劉〕仁願の軍隊を救援させた。
 このとき、福信はすでに実権を握り、扶餘豊と互いに疑い嫌っていた。福信は病気と称して穴蔵の部屋でねていたが、〔扶餘〕豊が病気見舞いにきたのをとらえて殺そうと思っていた。〔扶餘〕豊は〔この計略を〕知って、親衛隊を率いて不意に福信を襲って殺した。〔扶餘豊は〕使者を高句麗倭国に派遣し、援軍を求め、唐軍を防いだが、孫仁師は途中で迎え撃って〔その軍を〕破り、〔劉〕仁願の軍隊と合流し、〔唐軍の〕士気が大いにあがった。ここで〔唐の〕諸将軍が向うべき所を協議した。ある者は、
  加林城(忠南扶余郡林川面郡司里の聖興山城)は水陸の要衝である。全軍でまずこれを攻撃しよう。
といった。〔劉〕仁軌は、
  兵法で実を避けて虚を撃てという。加林〔城〕は嶮しくて堅固で、攻撃すれば、兵士たちを傷つけることになり、〔この城を〕守れば、長期間〔守れる〕。周留城は百済の巣穴で、大軍が集まっている。もしこれに勝つことができれば、諸城は自然に下るであろう。
といった。そこで、〔孫〕仁師・〔劉〕仁願および〔新〕羅王金法敏(文武王)は、陸軍を率いて進撃し、劉仁軌および別将の杜爽・扶餘隆は水軍および兵糧船を率いて、熊津江から白江にゆき、陸軍と合流し、共同して周留城にせまった。〔唐・新羅連合軍が〕倭軍と白江口で遭遇し、四度戦ってみな勝ち、〔倭軍の〕舟四百艘を焚いたが、その煙や炎は天をこがし、海水は丹くなった。王の扶餘豊は身をもって脱走し、ゆくえがわからなかった。ある人は、「高句麗に逃げたのだろう」といった。〔しかし、唐・新羅の連合軍は扶餘豊の〕宝剣をえた。王子の扶餘忠勝・忠志らは、その軍隊を率いて、倭軍とともに降服した。〔しかし、〕一人、遅受信だけは、任存城によって、まだ降服しなかった。
 さきに、黒歯常之は逃散〔していた者〕をよびあつめたが、十日間であつまったものが、三万余人〔にも達した〕。〔蘇〕定方は軍隊を派遣し、これを攻めさせたが、〔黒歯〕常之は防戦してこれを破り、二百余城を奪回した。〔蘇〕定方は勝つことができなかった。〔黒歯〕常之は、別部将の沙吒相如とともに峻嶮によって、福信に呼応していたが、このときになって、みな降服した。〔劉〕仁軌はまごころを〔黒歯常之らに〕示し、〔彼らに〕自らすすんで任存〔城〕を奪取〔させようとして〕、兵器や食糧を与えた。〔孫〕仁師は、
  野人(彼ら)の心は信頼できない。もし、〔彼らが〕兵器と食糧を受けとるならば、賊軍に利益を与えることになるでしょう。
といった。〔これに答えて劉〕仁軌は、
  わたしが〔沙吒〕相如や〔黒歯〕常之をみるのに、彼らは忠誠心と知謀とをもっており、機会をえて功績を立てる〔ならば〕、そのうえどうして疑う必要がありましょうか。
といった。〔黒歯常之ら〕二人は、ついにその城を取った。遅受信は妻子を〔彼らに〕委ね、高句麗に逃げたので、残党はことごとく平定された。
〔孫〕仁師らは、兵をととのえて帰国したが、詔して、〔劉〕仁軌をとどめ、軍隊を統括して、〔熊津都督府を〕守らせた。戦火の余燼で、街なみはあれはて、埋葬されない屍が、むらがり生えている雑草のように〔多かった〕。そこで〔劉〕仁軌は、まず骸骨を埋めさせ、戸数や人口を登録して村を治め、官長をおいて、道路を開通させ、橋を立て、堤や土手を補修し、〔住民に〕農耕や養蚕をさせ、貧乏な人に施しを与え、孤児や老人を養った。〔また彼は〕唐の神の社をたて、〔唐の〕暦や廟諱を頒布したので、住民は皆喜び、それぞれ自分の場所に安住した。
 皇帝(高宗)は扶餘隆は熊津都督として〔百済に〕帰国させ、新羅との昔からの憾みをとりのぞき、旧家臣たちを招き集めさせた。