救援軍渡海

日本書紀 巻第二十七

 天智天皇 天命開別天皇

 天命開別天皇舒明天皇の皇太子である。母を天豊財重日足姫天皇皇極天皇)という。皇極天皇の四年に、天皇は位を孝徳天皇に譲られた。そのとき天皇(後の天智)を立てて皇太子とされた。孝徳天皇は白雉五年におかくれになった。翌年に皇祖母(皇極)が重乍して斉明天皇となられた。
 七年七月二十四日、斉明天皇がおかくれになった。皇太子は白の麻衣をお召しになって、即位式は挙げないで、政務をとられた。
 この月に、蘇将軍(唐将蘇定方)と突厥(トルコ)の王子契芯加力らとが水陸両道から進撃して、高麗の城下に迫った。皇太子は長津宮(博多大津)に移っておいでになった。そこで海外の指揮をとられることになった。
 八月に、前軍の将軍大花下安曇比羅夫連・小花下河辺百枝臣ら、後軍の将軍大花下阿倍引田比羅夫臣・大山上物部連熊・大山上守君大石らを遣わして、百済を救援させ、武器や食糧を送らせられた。――ある本には、このあとに続けて、別に大山下狭井連賓榔・小山下秦造田来津を遣わして、百済を守護させた、とある。
 九月、皇太子は長津宮にあって、織冠を百済の王子豊章にお授けになった。また多臣蒋敷の妹をその妻とされた。そして大山下狭井連賓榔・小山下秦造田来津を遣わし、軍兵五千余を率いて、豊章を本国に護り送らせた。この豊章が国に入ると、鬼室福信が迎えにきて、平伏して国の政をすべてお任せ申し上げた。


三国史記 巻第六

新羅本紀第六 文武王 上

第三〇代 文武王(在位六六一―六八一)

 二年(六六二)春正月、唐の使臣が〔新羅王都の〕館にいて、このときになって王を冊命し、開府儀同三司・上柱国・楽浪郡王・新羅王とした。
〔この月、〕伊食の文訓を中侍にした。


三国史記 巻第二十二 高句麗本紀第一〇 寳臧王 上

 二十一年(六六二)春正月、左驍衛将軍・白州(中国広西チワン族自治区玉林博白県)刺史・沃沮道縈管の龐孝泰は、蓋蘇文と虵水(合掌江)のほとりで戦って、全滅し、その子十三人とともに戦死した。蘇定方は平壌〔城〕を包囲したが、大雪に会って、〔包囲を〕といて退いた。大体、〔この〕前後〔の時期〕の〔高句麗討伐〕行は、みな大した成果もなく、退いた。