西征と天皇崩御

日本書紀 巻第二十六 斉明天皇

 三月二十五日、船は本来の航路に戻って、娜大津(博多港)についた。磐瀬行宮(福岡市三宅か)におはいりになった。天皇は名を改めてここを長津(那珂津)とされた。
 夏四月、百済の福信が使いを遣わして表をたてまつり、百済の皇子糺解(豊璋)をお迎えしたいと乞うた。――釈道顕の日本世記には、百済の福信は書をたてまつって、その君糺解のことを東朝に願ったと。またある本に、四月、天皇は朝倉宮(福岡県朝倉町)に移り住まれたとある。
 五月九日、天皇は朝倉橘広庭宮にお移りになった。このとき朝倉社の木を切り払って、この宮を造られたので、雷神が怒って御殿をこわした。また宮殿内に鬼火が現れた。このため大舎人や近侍の人々に、病んで死ぬ者が多かった。
 二十三日、耽羅済州島)がはじめて王子阿波伎らを遣わして調をたてまつった。
 ――伊吉博徳の書に、この年一月二十五日、越州杭州湾南岸)についた。四月一日越州から出発して東に帰った。七日聖岸山の南についた。八日晩、西南の風に乗って船を大海に出した。海上で路に迷い漂流して苦しんだ。九日八夜してやっと耽羅島についた。島人の王子阿波伎ら九人を招きもてなし、使人の船にのせて、帝にたてまつることとした。五月二十三日、朝倉の朝廷にたてまつった。耽羅の人が入朝するのは、この時に始まった。また智興の供人の東漢草直足島のために讒言され、使人らは唐の朝廷から寵命(おほめのことば)を受けられなかった。使人らの怒りは上天の神に通じて、足島は雷にうたれて死んだ。時の人は「倭の天の報いは早いことだ」といったとある。


三国史記 巻第二十八

百済本紀第六 義慈王

第三一代 義慈王(在位六四一―六六〇)

 〔このことがあった〕ときは、龍朔元年(六六一)三月である。