百済と高句麗の政変

日本書紀 巻第二十四

  皇極天皇 天豊財重日足姫天皇

 二月二日、安曇山背連比羅夫・草壁吉士磐金・倭漢書直県を、百済の弔使のもとに遣わして、その国の様子を尋ねさせた。弔使は、「百済国王(義慈王)は私に『塞上(義慈王の弟で当時日本にいた)はいつも悪いことをしている。帰国する使いにつけて、帰らせて頂きたいですがと申し上げても天皇は許されまい』といいました」とのべた。
 百済の弔使の従者たちは、「去年十一月、大佐平智積が死にました。また百済の使人が昆倫の使いを海中に投げ入れました。今年一月、国王の母が亡くなりました。また弟王子に当る堯岐や同母妹の女子四人、内佐平岐味、それに高名の人々四十人あまりが島流しになりました」といった。


三国史記 巻第二十八

百済本紀第六 義慈王

第三一代 義慈王(在位六四一―六六〇)

 二月、王は〔各地の〕州や郡を巡視・慰撫し、囚人の刑量を考慮して、死罪以外はすべて原した。