皇嗣問題難航

日本書紀 巻第二十三

息長足日広額天皇 舒明天皇

 息長足日広額天皇は、亭中倉太珠敷天皇の孫、彦人大兄皇子の子なり。母を糠手姫皇女と曰す。豊御食炊屋姫天皇の二十九年(六二一)に、皇太子豊聡耳尊薨りましぬ。而るを未だ皇太子を立てず。三十六年(六二八)の三月を以て、天皇崩りましぬ。


日本書紀 巻第二十三

  舒明天皇 息長足日広額天皇

皇嗣問題難航

 息長足日広額天皇は、敏達天皇の孫、彦人大兄皇子の子である。母を糠手姫皇女という。推古天皇の二十九年、聖徳太子薨去された。けれども後の皇太子を立てられないまま、三十六年(六二八)三月、天皇崩御された。
 九月に葬礼が終ったが皇位はまだ定まらなかった。このとき、蘇我蝦夷臣は大臣であった。ひとりで皇嗣を決めようと思ったが、群臣が承服しないのではないかと恐れた。阿倍麻呂臣と議り、群臣を集めて大臣の家で饗応した。食事が終って散会しようとするときに、蝦夷は阿倍臣に命じ、群臣に語らせて、「いま、天皇崩御されたままで後継者がない。もし速やかにきめなかったら、乱れがあろうかと恐れる。ところで、何れの王を日嗣とすべきであろうか。推古天皇が病臥なさった日に、田村皇子に詔して、『天下を治めるということは大任である。たやすく言うべきものではない。田村皇子よ、慎重によく物事を見通すようにして、しっかりとやりなさい』と仰せられた。つぎに山背大兄皇子に詔して、『お前はやかましく騒いではならぬ、必ず群臣の言葉に従って慎んで道を誤たぬように』といわれた。これが天皇のご遺言である。さて、誰を天皇とすべきだろうか」といった。群臣はだまって答えることがなかった。もう一度尋ねたが答えはなかった。強いてまた問うと、大伴鯨連が進み出て、「天皇の遺命のままにすべきでしょう。このうえ群臣の意見を待つまでもないでしょう」といった。阿倍臣は「どういうことなのか、思うことをはっきり述べよ」といった。答えて、「天皇はどのように思われて、田村皇子に詔して、『天下を治めることは大任である。しっかりやるように』と言われたのでしょう。このお言葉からすれば、皇位はきまったと同じです。誰も異議をいうものはないでしょう」といった。そのとき采女臣摩礼志・高向臣宇摩・中臣連弥気・難波吉士身刺の四人の臣が、「大伴連の言葉の通りまったく異議はありません」といった。許勢臣大麻呂・佐伯連東人・紀臣塩手の三人が進み出て、「山背大兄王、この人を天皇とすべきである」といった。ただ、蘇我倉麻呂臣だけは、「私はここで即座に申すことができません。もう少し考えて後に申しましょう」といった。蝦夷大臣は群臣が折り合わず、意見を纏めることはできぬと知って退席した。
 これより先、蝦夷大臣は、ひとり境部摩理勢臣(蘇我氏の一族)に会い、「天皇がなくなられて跡嗣がない。誰を天皇にしたらよいだろうか」と尋ねた。摩理勢は、「山背大兄を天皇に推しましょう」と答えた。

山背大兄王の抗議

 山背大兄王斑鳩宮においでになって、この議論を漏れ聞かれた。三国王・桜井臣和慈古の二人を遣わして、こっそり大臣に、「噂に聞くと叔父上(蝦夷)は、田村皇子を天皇にしようと思っておられるということですが、自分はこのことを聞いて、立って思い、すわって思っても、まだその理由が分かりません。どうかはっきりと叔父上の考えを知らせて下さい」といわれた。蝦夷大臣は山背大兄の訴えに自分からは返答しかねた。阿倍臣(麻呂)・中臣連(弥気)・紀臣(塩手)・河辺臣(禰受か)・高向臣(宇摩)・采女臣(摩礼志)・大伴連(鯨)・許勢臣(大麻呂)らをよんで、つぶさに山背大兄の言葉を説明した。そしてまた蝦夷は大夫たちに、「大夫たちは共に斑鳩宮に参って、山背大兄に『賤しい私(蝦夷)がどうしてたやすく皇嗣を定められましょうか。ただ、天皇の遺詔を群臣に告げるだけです。群臣らの言うには天皇の遺詔のごとくならば、田村皇子がどうしても皇嗣になられるべきです。だれも異議はありませぬと。これは群臣の言葉で、私だけの気持ではありません。私だけの考えがあったとしても、恐れ多くて人づてには申し上げられませぬ。直接お目にかかったときに、親しく申しましょう』とこのように申し上げよ」といった。そこで大夫たちは蝦夷大臣の命を受けて、斑鳩宮に参った。三国王・桜井臣を通じて、山背大兄に大臣の言葉を伝えた。大兄王は三国王らを通じて大夫たちに、「天皇の遺詔とはどのようなことだったのか」といわれた。大夫たちは、「手前共は深いことは分りませぬが、大臣の語っておられるところによると、天皇の病臥された日、田村皇子に詔して、『軽がるしく行く先の国政のことを言ってはならない。それ故田村皇子は、言葉を慎んで心をゆるめないように』と言われ、次に大兄王に詔して、『おまえはまだ未熟であるから、あれこれと言ってはならぬ。必ず群臣の言葉に従いなさい』と仰せられた。これはお側近くにいた女王および采女などの全部が知っていることであり、王も明らかにご存じのことであります」といった。大兄王はまた「この遺詔は誰が聞いたのか」といわれると、「手前たちはそのような機密は存じませぬ」と答えた。そこでまた郡大夫たちに「親愛なる叔父上の思いやりで、一人の使者ではなく、重臣らを遣わして教えさとして下さり、大きな恵みであると思う。しかるに今お前たちの述べる天皇のご遺言は、私の聞いたところとは少し違う。私は天皇が病臥されたとうかがって、急いで禁中に参ったのだ。そのとき中臣連弥気が中から出てきて言うのに、『天皇がお召しになっています』と。それで内門に入った。栗隈采女黒女が中庭に迎えて、大殿に案内した。入ってみると近習の栗下女王を頭として、女需鯖女ら八人と、全部では数十人のものが天皇のお側近くにいた。また田村皇子もおられた。天皇は病が重くて、私をご覧になれなかった。栗下女王が奏上して、『お召しの山背大兄王が参りました』と言うと、天皇は身を起こして詔りされ、『自分はつたない身で久しく大業をつとめてきた。しかし今まさに終ろうとしている。病は避けることができない。お前はもとから私と心の通じ合った仲である。寵愛の心は他に比べるものがない。皇位が国家にとって大切なことは、私の世に限ったことではない。お前はまだ心が未熟であるから、言葉は慎重にするように』と言われた。そこに侍っていた近習の者は皆知っている。それで自分はこの有難い言葉を頂いて、一度は恐れ、一度は悲しく思った。しかし心は躍り上り、感激して為すところを知らぬ有様であった。思うに天子として国を治めることは重大なことである。自分は若くて賢くもない。どうして大任に当たれようか。このとき叔父や群卿に話そうと思ったが、言うべきときがなく、今日まで言えなかった。自分はかつて叔父の病気を見舞おうと思って、都(飛鳥)に行き豊浦寺にいたことがある。この日、天皇は八口采女鯖女を遣わして詔りされ、『お前の叔父の大臣は、常にお前のことを心配して、いつかはきっと皇位がお前に行くのではなかろうか、といっていた。だから行いを慎み、自愛するように』と仰せられた。すでにはっきりとこんなことがあったので、何を疑おうか。しかし自分は天下を貪る気はない。ただ自分が聞いたことを明らかにするだけである。天神地祇も証明しておられる。こういうわけで天皇の遺詔を知りたく思った。また大臣の遣わした群卿は、もとより厳矛(いかめしい矛)をまっすぐに立てるように、臣下の申し上げることを公正に伝えることを務めとする人々である。それ故よく叔父に申し伝えて欲しい」といわれた。


萬葉集 巻一

   高市岡本宮御宇天皇代 息長足日廣額天皇

    天皇、香具山に登りて望國しましし時の、御製の歌

二 大和には 群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 國見をすれば 國原は 煙立ち立つ 海原は かまめ立ち立つ うまし國ぞ あきづ島 大和の國は

    天皇、内野に遊猟しましし時、中皇命、間人連老をして献らしめためへる歌

三 やすみしし わが大君の 朝には とり撫でたまひ 夕には いより立たしし 御執らしの 梓弓の なかはずの 音すなり 朝猟に 今立たすらし 暮猟に 今立たすらし 御執らしの 梓弓の なかはずの 音すなり

    反歌

四 たまきはる宇智の大野に馬並めて朝ふますらむその草深野

    讃岐國安益郡に幸しし時、軍王、山を見て作れる歌

五 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらきもの 心を痛み ぬえこ鳥 うらなけをれば 玉だすき 懸けのよろしく 遠つ神 わが大君の 行幸の 山越す風の 獨をる わが衣手に 朝夕に 還らひぬれば ますらをと 思へる吾も 草まくら 旅にしあれば 思ひやる たづきを知らに 網の浦の 海をとめらが 焼く塩の 思ひぞ焼くる わが下ごころ

    反歌

六 山越の風を時じみ寝る夜おちず家なる妹をかけてしのひつ

    右は、日本書紀を検するに、讃岐國に幸しし事なし。また軍王いまだ詳かならず。但、山上憶良大夫の類衆歌林に曰く、記に曰く、天皇の十一年己亥冬十二月己巳朔壬午、伊予の温湯の宮に幸しきといへり。一書に云く、この時に宮の前に二つの樹木あり、この二つの樹に斑鳩と比米と二つの鳥大く集まれりき。時に勅して多く稲穂をかけて養ひたまふ。乃作りし歌なりといへり。もし疑はくはこの便より幸ししか。