難船の高麗使人

日本書紀 巻第十九

  欽明天皇 天国排開広庭天皇

 三十二年春三月五日、坂田耳子郎君を使者とし新羅に遣わし、任那の滅んだわけを問わせた。


日本書紀 巻第二十

  敏達天皇 亭中倉太珠敷天皇

烏羽の表

 亭中倉太珠敷天皇欽明天皇の第二子である。母を石姫皇后という。――石姫皇后は宣化天皇の女である。――天皇は仏法を信じられなくて、文章や史学を愛された。二十九年に立って皇太子となられた。三十二年四月、欽明天皇が亡くなられた。



30 敏達天皇難波皇子栗隈王美努王橘諸兄奈良麻呂―清友―檀林皇后―54 仁明天皇―55 文徳天皇―56 清和天皇―57 陽成天皇




三国史記 巻第四 新羅本紀第四

第二四代 真興王(在位五四〇―五七六)

 三十二年(五七一)、使者を〔南朝の〕陳に派遣し、特産物を献じた。


三国史記 巻第二十七

百済本紀第五 威徳王  恵王  法王  武王

第二七代 威徳王(在位五五四―五九八)

 十八年(五七一)、高斉の後主が、また王を使持節・都督・東青州諸軍事・東青州刺史とした。