日本への救援要請

日本書紀 巻第十九

  欽明天皇 天国排開広庭天皇

 十三年夏四月、箭田珠勝大兄皇子(欽明天皇の嫡子)が薨去した。

仏教公伝

 冬十月、聖明王は西部姫氏達率怒利斯契らを遣わして、釈迦仏の金銅像一躯・幡蓋若干・経論若干巻をたてまつった。別に上表し、仏を広く礼拝する功徳をのべて、「この法は諸法の中で最も勝れております。解り難く入り難くて、周公・孔子もなお知り給うことができないほどでしたが、無量無辺の福徳果報を生じ、無上の菩提を成し、譬えば人が随意宝珠(物事が思うままになる宝珠)を抱いて、なんでも思い通りになるようなものです。遠く天竺(インド)から三韓に至るまで、教に従い尊敬されています。それ故百済王の臣明は、つつしんで侍臣の怒利斯致契を遣わして朝に伝え、国中に流通させ、わが流れは東に伝わらんと仏がのべられたことを、果たそうと思うのです」といった。
 この日天皇はこれを聞き給わって、欣喜雀躍され、使者に詔して、「自分は昔からこれまで、まだこのような妙法を聞かなかった。けれども自分一人で決定はしない」といわれた。群臣に一人一人尋ねられ、「西の国から伝わった仏の顔は、端麗の美を備え、まだ見たこともないものである。これを祀るべきかそうか」といわれた。蘇我大臣稲目宿禰が申すに、「西の国の諸国は皆礼拝しています。豊秋の日本だけがそれに背くべきでしょうか」と。物部大連尾輿・中臣連鎌子が同じく申すのには、「わが帝の天下に王としておいでになるのは、常に天地社稷の百八十神を、春夏秋冬にお祀りされることが仕事であります。今始めて蕃神(仏)を拝むことになると、恐らく国つ神の怒りをうけることになるでしょう」と。天皇はいわれた。「それでは願人の稲目宿禰に授けて、試しに礼拝させてみよう」と。大臣は跪き受けてよろこんだ。小墾田の家に安置し、寧ろに仏道を修めるよすがとした。向原の家を清めて寺とした。後に国に疫病がはやり、人民に若死する者が多かった。それが長く続いて手立てがなかった。物部大連尾輿・中臣連鎌子は共に奏して、「あのとき、臣の意見を用られなくて、この病死を招きました。今もとに返されたら、きっとよいことがあるでしょう。仏を早く投げ捨てて、後の福を願うべきです」といった。天皇は、「申すようにせよ」といわれた。役人は仏像を難波の堀江に流し捨てた。また寺に火をつけ、余すところなく焼いた。すると、天は雲も風もないのに、にわかに宮の大殿に火災が起きた。
 この年、百済漢城平壌とを捨てた。新羅がこれにより漢城に入った。今の新羅の午頭方・尼弥方である。


552年(壬申)説
日本書紀』(以後、書紀と記す)では、欽明天皇13年(552年、壬申)10月に百済聖明王(聖王)が使者を使わし、仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。この上表文に関しては後世の文飾の可能性が高く、上表文を核とした書紀の記述自体の信憑性に大きく疑問が投げかけられている。ただし、十七条憲法大化改新詔と同様、文章の内容が後世の装飾であったとしても上表文の存在そのものを否定する材料とまでは言えないとして、552年伝来の事実そのものはあったとする見方もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8F%E6%95%99%E5%85%AC%E4%BC%9D


三国史記 巻第四 新羅本紀第四

第二四代 真興王(在位五四〇―五七六)

 十三年(五五二)、王は階古・法知・万徳の三人に命じて、于勒から音楽を学ばせた。